土佐国司・一条房基の子。母は大友義鑑の女。幼名を万千代。康信とも。従三位・左少将・左中将・権中納言。
天文18年(1549)に父・房基の死没によって家督を継承して土佐国司となり、土佐国幡多郡を領す。このとき6歳であったため、叔父の康政が政務を後見したという。
天文20年(1551)に左少将に任ぜられ、その翌年7月には天文21年(1552)に従三位に叙せられる。元亀4年(=天正元年:1573)6月には左中将、さらに権中納言となるが、同年9月には辞職して出家した。
永禄元年(1558)、伊予国大洲城主・宇都宮豊綱の女を室とするが、永禄7年(1564)にはこの妻と別れ、豊後国の大友宗麟の女を室とした。
永禄8年(1565)以来、大友宗麟の支援を受けて伊予国の西園寺公広と戦う。しかし失政や放縦な性格のため家臣に背かれ、天正元年(1573)9月16日に出家させられて自得宗惟と号したが、翌天正2年(1574)2月には家臣の合議や長宗我部元親の強迫により家督を子の内政に譲らされ、義兄弟にあたる大友宗麟を頼って豊後国臼杵に逃れた。
天正3年(1575)、同地でキリスト教宣教師・ジョアン=カブラルから洗礼を受け、パウロと称す。
同年7月頃に、密かに伊予国を経て土佐国に戻り、領土回復を期してかつての所領である中村を目指したが、元親の兵に攻められて敗走した(四万十川(渡川)の合戦)。
この後、伊予国に逃れて法華津播磨守のもとに身を寄せ、のちに宇和島沖の戸島に隠棲したが、元親に買収された旧臣に殺害されたとも伝わるが、「深手を負ったが助かり、天正13年(1585)に病没した」というイエズス会士の書簡による記録がある。
戸島本浦の龍集寺に兼定の墓があり、島内には兼定に因む伝承が残されているという。