土佐国幡多荘は中世初頭以来、一条氏の荘園だった。特に京都で関白の位にまで就いていた一条教房が応仁年間に争乱を避けて土佐に下り、幡多郡中村に居住して荘園の直接支配を始め、しだいに在地領主化していった。以来、代々、中村城を居城とし、幡多郡を支配していたのである。一条家の当主が兼定のとき、人心の離反を招き、たびたび諫言していた重臣・土井宗珊が殺されるにおよんで家中は大混乱に陥り、ついには家老たちが合議して兼定を土佐国から逐い、子の内政を家督に立てるという事態が起こったのである。
内政は長宗我部元親の娘を娶って岡豊城の南に移され、中村城には元親の弟・吉良親貞が入り、「管理」という大義のもと、長宗我部氏が実質的に幡多郡を支配することになったのである。
ところが天正3年(1575)7月、一条兼定が追放先の豊後国より伊予国へと潜入、南伊予の豪族・法華津播磨守や御荘越前守らの援助を得て、1千7百ほどの軍勢を率いて旧領回復を策して宿毛に侵入した。さらに四万十川の西、栗本に砦を築き、四万十川西岸に乱杭や逆茂木を施して防備を固めた。
その頃には一条氏の旧恩を慕って合流してくる者もあり、寄せ手の軍勢は3千5百ほどに達していたという。こうして中村以西は一条勢力となり、敷地城を陥落させるなどしながら軍勢を進め、中村城を窺う構えを見せたのである。
事態の急変に驚いた元親は吉良親貞・久武親信・山川親徳ら7千3百の兵を率いて岡豊城を出陣し、中村に着陣した。ここに四万十川を挟んで長宗我部勢と一条勢が相対することになったのである。
四万十川を渡川とも呼んだので、この渡川の合戦の合戦とも呼ばれている。
着陣した元親は軍勢を2手に分け、本隊を四万十川の浅瀬付近に配した。対する一条勢は、渡河中の長宗我部勢を攻撃する目論見で、川岸から2、3町ほど下げて布陣していた。そこへ元親は別働隊の中から50ばかりの兵を上流に移動させた。これを見た一条勢は長宗我部軍の主力が上流から一気に渡河してくるものと思い込み、それを防ぐために全軍を上流に移動させたのである。
しかしこれは元親の陽動作戦であり、その方策が図に当たったと見るやいなや、元親は主力部隊に渡河の命令を下した。これに気づいた一条勢も迎撃しようとするが態勢が整わず、ほぼ無傷で渡河を完了した長宗我部勢に打ち破られたのである。
長宗我部勢はその勢いで栗本城攻撃にかかった。栗本城は容易に落ちなかったが、攻城3日目についに陥落、兼定は敗走していった。この戦いで長宗我部軍は一条軍2百余名を討ち取ったという。
元親は吉奈城に細川定輔、宿毛には野田甚左衛門を配して北辺の守備を命じて岡豊に凱旋した。
さきに本山氏、さらに安芸氏を滅ぼした元親は、ここに一条氏をも滅ぼし、名実共に幡多郡をも領有することになり、土佐一国の平定をほぼ成し遂げたのである。