香川親和(かがわ・ちかかず) ?〜1587

長宗我部元親の二男。通称は五郎次郎。別称を親孝。
天正6年(1578)に長宗我部氏が讃岐国へ出兵したとき、讃岐国西半分6郡の領主だった天霧城主・香川信景の養子となって香川氏を継いだ。
天正10年(1582)の讃岐国平定戦においては、6月頃より一手の将として東讃岐へ侵攻、10月には元親の軍勢と合流して十河存保の拠城・讃岐国十河城を包囲した。
天正13年(1585)の四国征伐において長宗我部氏が羽柴秀吉に降ると香川氏も改易となり、人質となって在京していたが、天正14年(1586)の元親出仕に際して帰国を許され、その後は長宗我部氏の本拠である岡豊城下の東小野村に居した。
同年12月の戸次川の合戦で長兄・信親が戦死したのち、秀吉より「父の元親が死んだとしても、土佐国は親和に宛行う」旨の朱印状を与えられたというが、これは後世に作られた偽書であるともともいわれる。いずれにしても次期家督者と目されていたにも関わらず、父の元親からはその沙汰もなく、ただ知行地のみを給せられるのを心労にして病気となり、天正15年(1587)に岡豊にて没した。断食の果てに悶死したとも伝わる。