島津豊久(しまづ・とよひさ) 1570〜1600

島津氏一族。島津家久の子。幼名は豊寿丸。通称は又七郎。初名を忠豊。中務大輔・侍従。日向国佐土原城主。
天正12年(1584)3月、父・家久とともに肥前国に出陣し、沖田畷の合戦龍造寺隆信を破った。
天正15年(1587)の九州征伐において、家久は早期に豊臣政権軍に降って所領を安堵されるも戦後処理中の6月に急死したため、豊久に日向国都於郡・佐土原などの家久遺領が羽柴秀吉から朱印状をもって与えられた。
文禄慶長の役に従軍し、朝鮮半島に渡海して戦った。
慶長4年(1599)2月、中務大輔・侍従に任官する。また、同年の日向国庄内の乱鎮定にも出陣している。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては、徳川家康から京都伏見城の留守居役を承った伯父・島津義弘の要請に応じ、軍勢を率いて6月5日に上洛して伏見城の戦いに従軍した。
9月15日の関ヶ原の合戦で大勢が決したのち、義弘を逃がすために殿軍を引き受け、敵勢に斬り込んで討死にした(関ヶ原撤退戦)。享年31。法名は天岑昌運。