来島通総(くるしま・みちふさ) 1562〜1597

来島村上氏。伊予国河野氏の重臣で、瀬戸内海の海賊集団・村上水軍の将でもあった来島通康の三男。母は伊予国湯築城主・河野(弾正少弼)通直の娘。幼名は牛松丸、通称は助兵衛。通昌とも称す。従五位下・出雲守。
永禄10年(1567)に父・通康の死没を受けて、幼くして伊予国来島城主となって村上吉継・村上吉郷ら一族の補佐を受けたが、元亀元年(1570)頃に主家の河野氏と不和となった。この理由は、通康没後に河野氏運営の枢要を担った平岡氏が河野氏を大友氏へ接近させようとしたことへの反発や、この頃に河野(左京大夫)通宣から実質的に家督を継承した河野(兵部少輔)通直への反目などと目されている。
元亀3年(1572)頃には河野氏との関係が改善されたようであるが、親毛利氏であった来島氏は、毛利氏の要請を受けて天正4年(1576)の木津川沖の海戦に参陣するなどの反面、主家・河野氏の家中運営からは遠ざかり、天正9年(1581)には中国地方への勢力伸長を図る織田信長の武将・羽柴秀吉の調略を受けており、天正10年(1582)4月に至って河野氏より離反した。
このため、間もなく能島村上氏や毛利氏の水軍衆より攻撃を受けることとなり、天正11年(1583)3月に来島城を落とされると羽柴秀吉を頼り、天正13年(1585)の四国征伐後に伊予国35万石が小早川隆景の所領となると、来島1万4千石の所領を安堵された。
天正18年(1590)の小田原征伐では水軍の先鋒を務める。
文禄の役には兄・得居通之と共に、7百の軍勢を率いて渡海した。
文禄4年(1595)、従五位下・出雲守に叙位・任官。
慶長の役にも弟・得居通年と共に軍船を率いて渡海、南原城に明軍と戦って戦功を挙げ、慶長2年(1597)9月16日、全羅道鳴梁ノ浦で李舜臣率いる朝鮮水軍と会戦したが大敗、戦死した。36歳。法名は節巌院天叟常清。