河野通直(こうの・みちなお) ?〜1572

伊予国湯築城主・河野(刑部大輔)通宣の子。弾正少弼。伊予守護。剃髪して海岸和尚と号す。歴代の河野氏当主に通直と名乗る者が複数いるが、この通直はその官途名から「弾正少弼通直」と呼ばれる。
永正16年(1519)に没した父・通宣のあとを継いで湯築城主となる。
はじめ大内氏との関係は良好であったが、享禄元年(1528)の大内氏当主・大内義興の死と前後して将軍・足利義晴の斡旋で大内氏と不仲であった大友氏と提携し、大友・尼子氏らと共に大内包囲網を形成した。
天文7年(1538)に大内氏と大友氏の和睦が成立したが、河野氏は引き続き尼子氏と提携しており、大内氏との関係が悪化して緊張が高まった。
この頃、河野氏内部では当主の地位をめぐって通直と河野晴通による内訌が生じている(天文伊予の乱)。その経緯は不祥であり、晴通の出自も通直の子とする説や「予州家」と呼ばれる有力庶家の出身とする説があるなどの混乱も見える。
この内訌は家督の継承問題で通直と晴通の陣営に分かれての抗争となり、天文11年(1542)3月までは通直が当主の地位に在ったが、晴通陣営の圧迫によって湯築城を逐われて娘婿・来島通康を頼った。これにより晴通が河野氏当主となるが、天文12年(1543)に晴通が早世したことで再び通直が当主に返り咲いたと見られている。通説では、晴通の没後はその弟の通宣が家督を継承して通直が後見したとされているが、天文19年(1550)までは通直が伊予守護職にあることから、その頃までの実権は通直の手中にあった。
また、天文伊予の乱の和議によって通直は城を出て出家し、城の北の居所を龍隠寺として開山となり、海岸希清大和尚と称したという。
元亀3年(1572)8月26日没。