大内義興(おおうち・よしおき) 1477〜1528

大内政弘の嫡男。幼名は亀童丸。通称は六郎。従三位・周防権介・大内介・左京大夫。
明応3年(1494)秋、病を患った父・政弘より家督を譲られ、周防・長門・豊前・筑前国ならびに石見国邇摩郡の守護となった。これに際して興隆寺の僧となって尊光と称していた弟が不満を示し、宿老の杉武明と謀って義興を除こうとしたが、義興は明応8年(1499)2月に武明を自害させ、尊光は還俗して高弘と名乗り、大友氏を頼って豊後国に逃れた。
明応9年(1500)、細川政元に逐われた前将軍・足利義稙が義興を頼って周防国山口に来るとこれを保護し、政元没後の永正5年(1508)に義稙を擁して大兵を率いて上洛した。将軍・足利義澄細川澄元らは戦わずに逃げたため7月には義稙を将軍位に復職させることに成功、自らは管領代として幕政を司り、山城守護を兼ねた。大内氏の家格では管領職に就くことができなかったために管領代となったのであるが、実質的には管領と同等の権勢である。
永正8年(1511)8月に澄元らに逆襲されて丹波国に退くが、同月の船岡山の合戦において大勝して澄元らを逐い、京都に復帰した。朝廷よりその功を賞され、翌年3月には従三位に昇叙されている。
在京は10年間に及び、幕政と京都の治安の維持などに務めた。この間の永正14年(1517)には石見守護にも任じられている。
しかし、義興が出征している間に中国地方では出雲国の尼子氏が勢力を伸ばし、大内氏の領国を脅かしたため永正15年(1518)、管領代を辞して帰国した。
以降は領国経営や中国地方における勢力拡大に専念し、大永元年(1521)から毎年の如く安芸国に出兵し、尼子経久や安芸守護・武田氏の軍勢と干戈を交えた。
安芸国の諸豪族の多くが尼子氏の麾下となっていたため苦戦し、大永3年(1523)には大内氏の安芸国支配の拠点である西条盆地の鏡山城が尼子軍のために陥落した(鏡山城の戦い)。しかし翌年(1524)6月に義興は安芸国厳島に進み、ここを拠点に侵攻して近隣豪族を屈服させた。
大永5年(1525)に毛利元就が尼子氏と手を切って大内氏に加担することになったため、いくらか勢力を回復することができた。
しかし享禄元年(1528)7月、安芸国佐西郡門山城で病に倒れて帰国、12月20日に山口で死去した。52歳。法名は凌雲寺殿傑叟義秀。
大内氏には代々、文学や風雅といった貴族的な文化に傾倒する傾向が見られる。義興もまた公卿・禅僧・学者らとの交際が深く、和歌・連歌などに造詣深いものがあり、連歌師の宗碩より古今伝授を受けている。
また、経済政策として朝鮮や明との貿易にも意を注ぎ、それから得られる莫大な利益を背景として中央政界への進出を果たしたのである。