河野通宣(こうの・みちのぶ) ?〜1519

伊予守護・河野教通の嫡子。通称は六郎。刑部大輔。伊予守護。
明応9年(1500)の父・教通の死後に家督を相続した。
はじめ畿内や四国に大きな勢力を有する細川政元とは友好関係にあり、明応の政変で失脚した足利義材(のちの足利義稙)を庇護した大内義興攻めに加わっているが、永正4年(1507)に政元が暗殺されたのちは大内方に転じた。
国内においては父祖の代からの予州家(河野氏分家)との抗争が続けられていたが、通宣が大内氏と接近したことによってそれまで大内氏の支援を受けていた予州家は後ろ楯を失うこととなり、その勢力を大きく減衰させることに成功した。また、提携した大内氏の影響力を背景として村上水軍や国人領主層への支配力も強め、比較的安定した領国統治を行える基盤を築き上げた。
永正16年(1519)7月20日死去。法号は天徳寺殿天臨宗感大禅定門。