来島通康(くるしま・みちやす) 1519〜1567

伊予国河野氏の重臣で、瀬戸内海の海賊集団・村上水軍の将。来島村上氏。来島城主。右衛門大夫・出雲守。
天文15年(1546)の村上(能島)義雅没後に起こった村上義益と村上武吉による内訌には義益を支援したが、のちには武吉と和を結んで娘を嫁がせている。
伊予守護・河野(弾正少弼)通直の娘を妻とし、天文年間中期に起こった河野氏の内紛(天文伊予の乱)に際しては一貫して義父の通直を援けた。この際、通直を来島に保護するなどしており、その恩賞として河野氏の家紋(折敷に三文字)が与えられ、一族の扱いを受けている。
この乱で当主の通直が更迭されて河野晴通、ついでその弟の(左京大夫)通宣が家督を継承するが、通宣の時代には側近の代表的な地位にあって病気がちな通宣をよく援け、とくに対外面においては書状に宛所や文中に「村上出雲守」の名が散見できることから、河野氏当主の通宣に准ずる立場であったことが窺える。
また小早川隆景の養女(実父は宍戸隆家)を妻としたともいい、天文24年(=弘治元年:1555)の厳島の合戦に際して隆景の父・毛利元就からの要請に応じて参陣し、毛利方の勝利に大きく貢献した。また、続く須々万沼城の戦いにも毛利方として出陣したと見られ、主家の河野氏に宛てて毛利隆元より通康の来援を感謝した書状が出されている。とくに厳島の合戦における来援について毛利氏は強く恩義を感じていたらしく、永禄11年(1568)には土佐国の一条兼定との抗争を抱えていた河野氏に「恩おくり」(恩返し)と称して大軍を派遣する軍事支援を行っており、以後に展開される河野氏と毛利氏の緊密な関係のきっかけとなった。
この一条氏との抗争において南伊予に出陣したが、病に罹って道後に帰還し、永禄10年(1567)10月23日に没した。49歳。
主家の河野氏は左京大夫通宣のあとを(兵部少輔)通直が継いだが、一説にはこの通直は通康の子であるともいう。