河野通直(こうの・みちなお) 1566?〜1587

伊予国の戦国大名。河野(左京大夫)通宣の後継。母は小早川隆景の養女(毛利氏重臣・宍戸隆家の娘)。幼名は牛福丸。通称は四郎。伊予守・兵部少輔。伊予国湯築城主。
父については不明確で、河野通宣とする説、河野通生の流れを汲む池原通吉とする説、河野氏重臣の来島通康とする説などがある。
通説では病に罹った河野通宣より永禄11年(1568)に家督を譲られたとされているが、近年では通宣の死没を受けて元亀元年(1570)に家督を継承した、との見解も示されている。
幼少で家督を継承したことに加え、母が毛利元就の外孫であったこともあって毛利氏の影響を色濃く受け、天正9年(1581)には毛利家臣・吉見広頼の娘(毛利輝元の姪にあたる)を妻に迎え、毛利氏との結びつきを強めている。
軍事面においても、永禄10年から11年(1567〜1568)にかけての伊予国喜多郡の宇都宮豊綱との抗争(鳥坂合戦)、天正10年(1582)に離反した来島通総の鎮圧などの武力抗争に対しても河野氏独力では対処できず、毛利氏に援軍を依頼することが恒常的となっていた。
とくに、天正12年(1584)までに土佐・阿波・讃岐の3国を制圧した長宗我部元親による伊予国侵攻に苦しめられ、これまでは天正13年(1585)に長宗我部氏に降り、同年の羽柴秀吉による四国征伐においては、長宗我部勢の前衛として湯築城に籠もって羽柴方小早川氏の軍勢と対戦するも隆景の勧めによって降伏開城したと理解されてきたが、近年の研究では、長宗我部氏へ降伏はせずに抗戦を続け、迎えた四国征伐においては小早川氏に加担してその庇護下で家中を存続させようとしたと見られている。
いずれにしても、この四国征伐後に伊予国の統治は小早川隆景に委ねられることとなり、大名としての河野氏は滅亡するに至る。
通直は四国征伐後も湯築城下に在ったが、天正15年(1587)に隆景が筑前国へ移封となるのにともなって隆景の本領であった安芸国竹原へと移り、まもなく同地で死去した。『予陽河野家譜』では7月15日に病死したとされているが、疑問点も呈されている。