相良頼房(さがら・よりふさ) 1574〜1636

相良義陽の二男。天正2年(1574)5月4日に生まれる。幼名は長寿丸。名を長毎とも。通称は四郎次郎。宮内少輔・宮内大輔・従五位下。肥後国人吉城主。
天正9年(1581)の父・義陽の死後は兄の忠房が家督を継ぎ、頼房は従属先の島津氏の元へ人質として赴いていたが、忠房が14歳で早逝したため、天正13年(1585)に12歳で家督を相続する。
島津氏麾下として豊後国への出兵などに従軍するが、羽柴秀吉九州征伐の際に重臣・深水宗芳の尽力によって肥後国球磨1郡の大名として存続するに至った。
文禄の役に際しては、兵を率いて渡海した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役でははじめ西軍に属して美濃国大垣城の三の丸を守ったが、秋月種長・高橋元種らと謀って内応、東軍の兵を城内に手引きして、合戦後には本領を安堵された。
元和5年(1619)、所領の椎葉で郷士一党が強訴を起こすと、その首謀者を人吉に呼び寄せて搦め捕り、叛徒2百余りを討ち取って鎮定した。
寛永13年(1636)6月13日、江戸の藩邸で没した。63歳。法名は天叟玄高瑞祥院。