浅井久政(あさい・ひさまさ) 1526?〜1573

近江国小谷城主。浅井亮政の子。母は側室の尼子氏。幼名は猿夜叉。通称は新九郎。左兵衛尉・下野守。
久政は嫡男ではなく、天文11年(1542)に父・亮政が没した時点においては亮政の娘婿・浅井(田屋)明政が後継者と目されていたが、天文13年(1544)4月に久政が亮政の三回忌法会を営んでいることから、この以前までに浅井氏家督を継承したことを窺える。
この家督継承について『東浅井郡志』では、「蔵屋(亮政正室)の賢と尼子氏(亮政側室・久政の母)の徳」によって久政が家督を継承することになったとしている。
この頃の浅井氏は近江国北部の3郡を掌握していたとはいえ、近江守護で近江国南半を領す六角定頼に従属しており、かつて浅井氏によって推戴されていたが天文10年(1541)に至って決裂した京極高峰との抗争も激化するなど、苦境にあった。
天文19年(1550)頃に高峰と和睦したのちは再び高峰を推戴して六角氏に叛旗を翻したが、天文22年(1553)11月に至って鎮圧され、再び六角氏に服属した。
軍事における顕著な事績は皆無であるが、民政に意を注ぎ、とくに餅の井と松田井と呼ばれる2つの堰を造って高時川流域の用水既定を定めるなど、地形を生かした利水事業に力を入れたことが知られている。
永禄3年(1560)10月頃に家臣らの強要を受けて嫡男・長政に家督を譲って小谷城の小丸に隠退し、以後は小丸殿と称された。
天正元年(1573)8月、織田信長に攻められて小谷城が落城した際(小谷城の戦い:その2)、自刃した。法名は久岳良春。生年は大永6年(1526)とされるが、享年を49とする説がある。