伊勢国長島の願証寺は、蓮如の弟・蓮淳が開いた由緒ある寺であり、尾張・美濃・伊勢国の門徒を統括する真宗本願寺派の司令部でもあった。また織田信長もこの3国に勢力を広げており、互いの影響力が重なることとなったが真っ向から戦うということはなく、なんとか共存の形を保っていたのである。
しかし元亀元年(1570)9月に本願寺法主・顕如が反信長の旗幟を鮮明にした(石山合戦)ことによって、この地域においてもにわかに緊迫した雰囲気となったのである。
信長は長島に近い尾張国小木江城に弟の信興を置き、五明などの砦にも兵を入れて願証寺が主導する一揆に備えた。しかし、織田勢の主力部隊が近江国において抑えこまれていることを知った願証寺側は11月、一揆を扇動して小木江城を襲った。この門徒らによる猛攻に城を支えきれなくなった信興は11月21日に自刃、城は落城した(小木江城の戦い)。それでも信長は動けなかったのである。本願寺に与した朝倉・浅井氏らとの和議が調い、軍勢を動かせるようになったのは12月半ばになってからのことだった。
翌元亀2年(1571)5月12日、信長は長島を攻めるために5万余の軍勢を率いて出陣した。
この長島の地は木曽川・長良川・揖斐川が合流する地域であり、複雑に入り交じった川筋によっていくつもの中州に分断された土地である。
一揆方は本城である長島を中心として各中州に砦を構えており、さらに西河岸には大鳥居・屋長島の砦を、東岸には市江島・五明の砦を、北方には前年に奪い取った小木江城などと連携をとっていた。長島一帯には2万余の門徒が籠もっていたといい、さらには桑名方面からの海運によって紀伊国との連絡もあったようである。長島の地はまさに『要塞』と化していたのである。
対する信長は軍勢を3手に分け、信長自身の率いる本隊は津島に着陣、佐久間信盛率いる尾張衆の軍勢は小木江方面の中筋口から、柴田勝家の率いる美濃衆を中心とした軍勢は西河岸の太田口より中州へと向かった。
しかし、一揆方の砦のそれぞれが川によって遮られており、攻める織田勢にとっては攻めにくく、守る一揆勢には守りやすいという自然の要害を利していたために攻めあぐね、織田勢は砦の近辺に放火してみせるだけで、砦を直接に攻撃することさえできなかったという。柴田隊に至っては、山に籠もった一揆勢から逆に攻勢を受けるような状況だった。
16日の夜、信長は戦果を挙げられないままに撤兵を命じた。信長本隊と佐久間隊は無事に軍勢を収めることができたが、柴田隊の退却は困難を極めた。左は山、右には川であったために狭い道を一列縦隊になって通るしかなく、軍勢の機動力や兵数を生かせない。それでも勝家は弓や鉄砲組を先に立てることで山側から攻撃する一揆を牽制させ、自らが殿軍となって退却を試みた。しかしこの退却戦は勝家が負傷し、旗指物まで奪われるという敗戦となった。その後、柴田隊の前にいた氏家卜全の部隊が交代して殿軍となったが、今度は氏家隊が一揆勢の追撃を受け、卜全はじめ多数の将兵が討たれたのである。