尾張国と接する伊勢国長島の地は、当時は木曾川・長良川・揖斐川が伊勢湾に流れ出るという過程の中で川筋が複雑に入り組み、たくさんの中洲が散在する地域であった。この中州のひとつに真宗本願寺派の願証寺が構えられ、この願証寺は尾張・美濃・伊勢国の一向宗門徒衆を統括する拠点でもあった。
尾張国の織田信長がその勢力を伸張するにあたって美濃・伊勢国も織田氏の分国となって願正寺と勢力圏が重なることとなり、地権をめぐっての紛争などもあったりしたが、それでもなんとか共存の形がとられていたのである。
しかし元亀元年(1570)9月12日、本願寺法主・顕如が織田氏と敵対する姿勢を明らかにしたことで石山合戦が勃発し、この西尾張から伊勢国長島の一帯も緊張が一気に高まり、一触即発の状態となった。こうした事態を受けて信長は長島に近い小木江城に弟の信興を入れて守らせるなど、一向一揆の蜂起に備えて防備を固めたのである。
織田軍と三好三人衆が摂津国で対峙していたとき(野田・福島の合戦)に石山本願寺が挙兵したのだが、9月16日にはこれに呼応して越前国の朝倉義景・近江国の浅井長政の連合軍や一向一揆勢が近江国坂本に進出。この事態を受けた信長は9月24日に坂本に転戦したが、朝倉・浅井軍は織田軍との決戦を避けて比叡山に上ってしまう。さらには10月になると三好三人衆に援軍が到着して摂津国方面を固めたため、織田軍は坂本に在って比叡山を包囲したまま、動きを封じ込められるかたちになってしまったのである(志賀の陣)。
この包囲戦略のために信長本人や主力部隊が近江国で抑えこまれているという状勢を見た長島願証寺は、門徒衆に小木江城攻撃の指示を下した。
この攻撃がいつから始められたかは詳らかでないが、日を追うごとに戦況は悪化するばかりであったようである。小木江城からの救援要請が届いたかもわからないが、信長は近江国の坂本で身動きが取れず、救援の兵を差し向けることもできなかったであろう。
万策尽きた城将の織田信興は11月21日に至って「一揆の手に掛かっては無念」と自害し、小木江城は陥落したのである。