天正2年(1574)6月23日、織田信長は尾張国津島へ出陣した。その対岸は一向一揆の『要塞』、長島である。元亀2年(1571)(伊勢長島一向一揆)、天正元年(1573)(伊勢長島一向一揆:その2)の侵攻作戦に失敗して大打撃を蒙り、これが3度目の長島侵攻となる。
その陣容は、陸路からの軍勢が柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・蜂屋頼隆・稲葉一鉄・安藤守就・織田信忠らに加え、先の2度の敗戦で水路を制する必要性を痛感したのだろう、滝川一益・林秀貞(天正元年の出兵で戦死した林光時の父)・織田信雄・九鬼嘉隆らに水軍での出陣を命じた。
この出陣では畿内の諸政にあたっている明智光秀、越前方面の抑えとして残した羽柴秀吉、美濃国で甲斐武田氏の動きに備えている河尻秀隆と池田恒興以外の有力武将がほぼ総動員された形であり、その総勢は7万という。
信長はこの出陣に先立って尾張国から伊勢国に通じる陸路を遮断し、伊勢の桑名方面においても軍勢を駐留させて、近畿方面との連絡を断たせている。さらには水軍で水路をも封鎖することによって長島を完全に孤立させており、まさに万全の体制で臨んだといえよう。信長は恨み重なる長島を、今度の出兵で完全に葬り去る決意を固めていたのである。
織田勢は7月13日に布陣を調え、14日より全軍を3手に分けて攻撃を開始した。柴田・佐久間隊を北西の香取口より中州に攻め入らせ、信忠隊を北東の市江に留めて予備隊として備えさせ、自らは丹羽隊を従わせて北方から攻め込んだ。翌15日には滝川・九鬼の水軍が長島の南方に到着、信雄も大船を率いて参陣した。これら6百艘にも及ぶ船団は中州を取り囲んで水路を封鎖し、一揆勢を追い込んでいった。
『要塞』長島にて抗する一揆勢は3万人。僧兵なども含まれるが、その大半は長島の住民である。一揆勢は陸・海の両面から包囲網を狭められていき、長島・篠橋・大鳥居・屋長島・中江の5城砦に立て籠もった。信長は長島一帯の包囲を完成させたうえで、これらの城砦を手分けして攻めさせた。
信長は、この戦いにおいて捕えた者、投降してきた者に対して『根切り』『根絶やし』と呼ばれる皆殺しを指示している。しかも僧・兵・民衆を問わずの殲滅である。それほど門徒・一揆勢力のしぶとさ、根深さを危惧していたのである。
8月3日には大鳥居、12日には篠橋が陥落した。この砦から脱出した者たちも長島全域の包囲からは逃れることができず、残った3つの砦へと逃げ込んだ。
その後の約1ヶ月半ほど、表面的には戦闘はなかったようである。長島の全兵力を3つの砦に封じ込めた信長は、兵糧攻めに踏み切ったのである。
外部からの支援を遮断されたことに加え、人口過密となった3つの砦の兵糧はすぐに尽き、餓死者が続出した。そんな状況の中、9月25日に至って本城である長島城が、長島に籠もっている者の助命を条件に開城を求めてきたのである。
信長はこれを認める旨の返答を与えたが、それは謀略だった。29日、織田勢は城を出て投降しようと出てきた一揆勢を、鉄砲隊で一斉掃射に処したのである。この仕打ちに一揆勢も猛反撃し、白兵戦を挑んだ。衣服を脱ぎ捨て、抜き刀のみを武器とした7、8百の集団が決死の覚悟で突撃を敢行したのである。これによって揖斐川の川岸では凄まじいばかりの戦闘が繰り広げられたという。兵力や武装で勝る織田勢ではあったが、この一揆勢の捨て身の一矢に、信長の叔父である織田信次・庶兄の織田信広・弟の織田秀成・従兄弟の織田信成・妹婿であった佐治信方などの一族衆をはじめ、数多くの馬廻衆を失った。
信長の怒りは頂点に達した。残された屋長島と中江の砦の周囲に逃亡防止の柵を幾重にも設け、逃げられないようにしたうえで放火を命じたのである。この残虐ともいえる殲滅策によって2万人もの農民が焼き殺されたという。
こうして伊勢国長島一向一揆の鎮定は終わった。この長島に駐留した前野長康は「(長島)島内は数千のおびただしき骸骨、甍を敷きたるが如く」と記録しているが、このことからもいかに凄惨な殺戮が行われたかを窺い知ることができる。