河尻秀隆(かわじり・ひでたか) 1527〜1582

姓を「川尻」とも書く。織田家臣。河尻親重の子。名を重遠・重吉とも。通称は与兵衛。肥前守。
天文11年(1542)8月、織田信秀に従って三河国小豆坂の合戦に出陣したといい、天文17年(1548)3月の小豆坂の合戦:その2にも従軍した。
信秀の死後は跡を継いだ信長に従い、馬廻となる。信長の信任厚く、信長が弘治3年(1557)(一説には永禄元年:1558)に弟・信勝(信行)を謀殺したときに手を下したのが秀隆だったとも伝わる。のち、黒母衣衆の筆頭として活躍した。
信長の美濃国侵攻や伊勢国の北畠氏や長島一向一揆との戦いなど、多くの合戦に参加。のちに信長の嫡男・織田信忠に付され、天正3年(1575)の長篠の合戦には信忠に代わって軍の指揮を執った。同年11月には武田方の属城となっていた美濃国岩村城を攻めた際に武功を挙げ(岩村城の戦い)、攻略後には同城を任されて武田氏への防備にあたった。
天正7年(1579)には、前年に信長に叛旗を翻した荒木村重の拠る摂津国有岡(伊丹)城の攻略にも尽力している。
天正10年(1582)2月からの武田征伐(田野の合戦)においては、織田信忠率いる主力軍に属して出陣し、滝川一益とともに先鋒隊として武田勝頼を追い詰め、自刃に追い込んだ。
武田征伐ののち、その功績を賞されて甲斐一国(穴山信君本領の河内領を除く)と、河内領の替地として信濃国諏訪郡を与えられ、甲斐国府中城主となった。しかし同年6月の本能寺の変で信長が横死したことで織田政権が瓦解すると、その混乱に乗じて蜂起した武田残党の攻撃を受けることとなり、6月18日に岩窪で戦死した。享年56。法名は長蔵寺殿洞水瑞雲大居士。