天正3年(1575)の長篠(設楽ヶ原)の合戦で多くの武将を失った武田勝頼は、天正9年(1581)には遠江国の戦略拠点であった高天神城も徳川家によって落とされ(高天神城の戦い:その2)、武田氏にとっては形勢不利な状況が生じつつあった。そのような折に、勝頼の姉を妻として武田一族としての扱いを受けていた信濃国木曾福島城主・木曾義昌が、弟の上松蔵人を人質に出して織田信長に通じたのである。天正10年(1582)1月25日(27日との説もある)のことであった。
この義昌の謀叛を知って憤慨した勝頼は義昌の人質を処刑し、武田一門の武田信豊や弟・仁科盛信に命じて討伐に向かわせ、自らも2月2日に軍勢を率いて出陣した。その総勢は1万5千余といわれる。
一方の義昌は、武田勢の進軍路を扼すために鳥居峠の防備を固めると共に、信長に援軍を要請。義昌からの急報を受けた信長は、これを武田氏に打撃を与える好機と捉えて嫡男・織田信忠や森長可・団忠直らの武将を先陣として派遣し、自らも出陣準備にとりかかった。
この武田征伐の陣立ては、美濃国から織田信忠、飛騨国から金森長近、駿河国からは徳川家康と、各方面から信濃国に攻め入っている。さらに関東口からは北条氏政までもが織田勢に同調して攻め込んでいる。
武田勢と織田信忠勢の戦いは主に伊那郡で展開されたが、飯田城の保科正直、大島城の武田信廉は戦わずして開城、14日には松尾城の小笠原信嶺も降伏している。また、武田勝頼・信豊の率いる本隊が進軍した木曾戦線でも、16日の鳥居峠の合戦において、地の利を得た木曾勢に武田勢が大敗を喫し、撤退を余儀なくされた。さらには29日、勝頼の義兄で駿河国江尻城主の穴山信君(梅雪)までもが、甲府に置いていた人質を奪還して徳川家康を通じて降るのである。
こうして戦いらしい戦いもないままに信濃国南部は織田勢力に飲み込まれていくこととなり、この快進撃ぶりを信長は武田方の策略と感じたのか、進撃を押し止めるような下知を下すほどであった。
この頃の勝頼は甲斐国西部に位置する韮崎の新府城を本拠としていたが、3月2日に甲斐との国境に近い信濃国高遠城までもが陥落(高遠城の戦い:その2)、弟・仁科盛信が自害したことを知ると、新府城では織田勢を迎え撃つことは不可能と判断し、重臣で郡内領主の小山田信茂の進言を入れて、天嶮の要害として名高い甲斐国岩殿山城に籠城して戦うことを決めた。そして3日早朝、新府城に火をかけて焼いたうえで岩殿山城めざして落ちていったのである。この新府には家臣からの人質らが残されたままであり、生きながら焼き殺されたと伝わる。
信長は3月5日に安土を出陣し、7日には岐阜に逗留している。信長らしからぬ遅々とした行軍であるが、この間にも信忠の率いる軍勢は勝頼一行の追撃を続けている。同じく7日に信忠は甲斐国の首府・甲府に侵攻。ここで武田信廉・一条信龍ら武田一族や重臣らをことごとく捕えて討った。
3月11日、勝頼一行は山道を通って勝沼を経て駒飼まで進んでいる。しかしここで思いもよらぬ報せを受けることになる。岩殿山城入りを勧めた小山田信茂までもが織田方に寝返ったというのであった。本拠地の新府城は自らの手で焼いてしまったあとだったし、岩殿山城にも入れないということがわかった時点で勝頼は、先祖の信満が自刃した地・天目山棲雲寺に入ろうとして日川渓谷をさかのぼることになった。はじめは5百人ほどいたという勝頼一行も、いつしか1人減り、2人減りして、とうとう50人ほどになってしまっていた。そんな勝頼一行を追って織田方の滝川一益・河尻秀隆の軍勢が迫る。
覚悟を決めた勝頼らは天目山麓の田野の地に急造の陣屋を構え、最期の地をここに定めた。勝頼および最期まで付き従っていた土屋昌恒・小宮山内膳・小原忠継・跡部勝資らの武将はまず女や子供を自らの手で殺し、その後に織田勢に向かって討って出たという。しかし多勢に無勢、勝算などあるはずもなく、死に場所を求めての特攻だった。
この戦いで勝頼および勝頼の子・信勝も自刃し、最後まで付き従っていた武将たちも自刃して果てた。ここに甲斐国武田氏の嫡流は滅亡したのである。
また、鳥居峠の合戦に敗れたのち勝頼に随行して新府に撤退した武田信豊は、再起を期して居城・信濃国小諸城に向かったが、城代の下曾根氏に謀殺されたとも、勝頼父子自害の報に混乱する小諸城で自刃して果てたともいわれる。
なお、一般的にこの武田氏最期の戦いは『天目山の合戦』と言い慣わされているが、実際の戦いは田野にて行われたのである。
勝頼一行の遺体は田野の住民の手で葬られ、のちに徳川家康の配慮によって東山梨郡大和村田野の景徳院が建立された。