小山田信茂(おやまだ・のぶしげ) 1539〜1582

武田家臣。小山田(出羽守)信有の子。幼名は藤乙丸、通称は弥三郎。左兵衛尉・出羽守。甲斐国岩殿山城主。
小山田氏には2系統あるが、この信茂は甲斐国郡内地方を領し、かつて都留郡守護を私称した郡内小山田氏の出身である。郡内小山田氏は信虎の代のときに臣従するが、固有の領主権は認められていたようで、かつては武田氏に匹敵する強大な勢力を保有していたという。居館は都留郡谷村にあり、駿河口を扼する岩殿山城を対北条氏の防衛拠点として守備した。
信茂は武田信玄勝頼の2代に仕え、川中島の合戦や北条氏との一連の抗争などにおいて武名を挙げた。
武略だけでなく諸書にも通じ、知識面においても重用されていた。
天正10年(1582)、織田軍が甲斐に迫ると(武田征伐)勝頼に郡内岩殿山籠城を進言し、その準備のため自領に戻ったが、勝頼が敗れて郡内に撤退してくると態度を豹変させ、途中の笹子峠で鉄砲を撃ちかけて、落日の武田氏に背いた。
だがこの行為を憎まれ、武田氏崩壊後に織田信長の命で斬られた。信茂の離反するに至った理由を、「戦禍から自領を救うため」とする説もあるが、結果的に信長に手を貸したことになることは否めない。