跡部勝資(あとべ・かつすけ) ?〜1582

甲斐国武田氏の譜代家臣。跡部祖慶(攀桂斎祖慶)の嫡男。大炊助・尾張守。
跡部氏は信濃国佐久郡の出身で、古くは甲斐守護代をも勤めた名家であった。
武田信玄勝頼の2代に亘って仕え、譜代家老衆として3百騎持。軍制面では名が見えず、永禄9年(1566)頃より取次や奉者としての活動が見られる。甲斐国山宮千塚および信濃国内に所領を与えられた。
元亀4年(=天正元年:1573)4月に信玄が没して勝頼の時代になると特に重用され、天正3年(1575)5月の長篠の合戦に先立つ軍議では、進撃か撤退か意見が分かれたが、勝資は長坂光堅とともに勝頼の意を酌んで進撃を勧めた。この合戦で大敗を喫した武田家は信玄以来の重臣を多く失ったが、この後より奏者としての活動が多く見られるようになる。
天正4年(1576)4月の信玄の葬儀に際し、春日虎綱(高坂昌信)・跡部勝忠とともに奉行を勤めている。
天正10年(1582)2月からの武田征伐に際し、進退に窮した勝頼に小山田信茂領の都留郡(郡内)への後退を勧めたが、信茂の裏切りに遭って武田氏は滅亡、勝資も最期まで勝頼主従に付き従って討死あるいは殉死を遂げた。