甲斐国武田氏の重臣。穴山信友の嫡男。母は武田信玄の姉・南松院、妻は信玄の娘・見松院(見性院)という深い姻戚関係を持ち、武田一門として重く用いられた。
幼名は勝千代、長じて彦六。左衛門大夫・陸奥守・玄蕃頭。天正8年(1580)に入道して梅雪斎不白と号した。
永禄5年(1562)6月、父の死により家督と河内領(甲斐国南部の富士川流域)を相続する。信玄の代から2百騎持の侍大将として川中島の合戦:第4回・三方ヶ原の合戦・長篠の合戦などの緒戦に参加、主に本陣の守備隊として従軍した。鉄砲隊を組織していたと思われる。
勝頼の代には親類衆筆頭として、武田家中で更に重きをなした。
永禄年中は駿河国興津城主、天正3年(1575)以降は戦死した山県昌景の後任として駿河国庵原郡を領して江尻城主となり、東海地方の最前線を防備した。同時に、甲斐と江尻間に伝馬を設けて輸送網を整備、城下町を作るなど、商業政策にも力を入れた。
信玄の死後、台頭著しい徳川家康を警戒し、天正7年(1579)に江尻城を堅牢に改築、天正9年(1581)には勝頼に進言して甲斐国韮崎に新府城を築かせている。
天正10年(1582)3月、武田氏が滅亡する直前に家康を通じて織田信長に降り、旧領の河内と江尻の一部を安堵された。
この離反は武田氏の救済と存続が条件だったといわれる。これは好意的に見れば家名存続のためとも取れるが、前述の長篠の合戦のときには逸早く戦場から離脱しているため、早くから武田氏に見切りをつけていたという説もある。また、離反するにあたって人質になっていた妻子を逸早く新府城から盗み出すという狡猾さもあった。
同年5月、家康とともに信長に謁し和泉国の堺に遊山に出たが、6月2日に本能寺の変が勃発。この報を得た信君は急ぎ伊賀越えの道で帰国しようとしたが、その途中で一揆に襲われ、山城国宇治田原の山中で落命した。42歳。法名は霊泉寺古道集公居士。ちなみに、信君とは別の道をとった家康は無事に帰国している。
学識深く達筆で、文化的教養も高かったというが、その反面で顔貌は異相、紙子(厚紙に柿渋をひいて作った着物)の羽織や着物を身に着けて往来を闊歩するなど、奇を好む性質だったともいわれている。