天正10年(1582)、内通してきた木曾義昌が武田勝頼に攻められて救援を求めてきたことを契機に、織田信長は嫡子・信忠を総大将とした軍勢を信濃国へと送り込んだ。
天正3年(1575)の長篠の合戦で敗北を喫してから武田氏の勢力は急速に衰えており、求心力を失っていた。そのため、この織田軍の侵攻に晒されることになった信濃国では戦わずして降伏や開城する城も多く、織田勢は無人の野を行くが如く南信濃の大半を勢力下に収めたのである。
そんな中にあって、最後まで頑強な抵抗の姿勢を示したのが勝頼の弟・仁科盛信の守る高遠城であった。
高遠城は三方が崖と川とに守られた要害の山城である。信忠は、この城を攻めるにあたって盛信に降参を進める書状を送った。攻城戦において降伏勧告を儀礼的に行うことも少なくないが、数・勢い共に勝る軍勢を背景に通達されたこの勧告は、もはや最後通牒である。が、盛信は断固としてこれを拒否、城を枕に討死する覚悟であることを表明した。
織田勢は3月2日に高遠城を囲み、即座に総攻撃が始められた。
戦いは熾烈を極めた。信忠を筆頭に森長可・団忠正・河尻秀隆らに率いられた織田勢は3万ともいわれる大軍で城を一揉みにしようと攻めかかったが、ここを最期と決死の覚悟で臨んだため、士気もすこぶる高かった。森・団・河尻らの隊は川を渡って崖を登り、城の大手から攻め立てる。信忠は城の後方に連なる尾根より城の搦め手を攻撃した。総大将の信忠自ら柵を破り、塀の上から軍勢を叱咤したというほどの猛攻撃だったという。
城方でも敵の真っ只中に飛び込んで奮戦したという副将・小山田昌行や、女ながらも刀を取って戦ったという諏訪勝右衛門の妻など、いくつかの逸話が残されている。
しかし高遠城はこの日のうちに落城した。盛信はじめ城兵の主だった者ほぼ全てが討死を遂げ、織田勢が討ち取った首級は4百を超えたという。