高天神(たかてんじん)城の戦い:その2

天正2年(1574)の高天神城の戦いでは、甲斐国の武田勝頼が遠江国高天神城主・小笠原氏助の勧降に成功し、遠江国における武田氏の拠点としてこの城を確保するに至った。だが武田氏は、翌天正3年(1575)5月の長篠(設楽ヶ原)の合戦織田信長徳川家康連合軍によって大敗を喫し、逆襲に転じた徳川氏によって同年のうちに諏訪原城や二俣城といった要衝も落とされ(諏訪原城の戦い二俣城の戦い:その2)、遠江国における勢力を減退させていったのである。
しかし、依然として高天神城は遠江国に打ち込まれた武田方の楔として確保され続けていた。家康は天正2年に高天神城が武田方に降ったのち、馬伏塚城を修築して高天神城に対する押さえとしていたが、天正6年(1578)7月にはさらに一歩進めて横須賀城を築き、高天神城攻めの布石を打っているのである。
一方の高天神城の方では、はじめ城番として横田尹松が命ぜられていたが、天正7年(1579)8月頃には今川旧臣で、武田信玄による駿河国侵攻後に武田氏に属すようになった岡部元信が城将となり、尹松は軍監となっていた。
しかしこの頃の武田氏は、前年に越後国で起こった御館の乱に介入したことが発端となって決裂した相模国の北条氏との抗争を抱えるようになっており、この北条勢と相互に連携した徳川勢の圧迫によって軍勢を催すことが困難になりつつあったのである。

天正8年(1580)、家康は高天神城の奪回に向けて本格的に動き出す。同年6月頃までには高天神城攻めの付城(攻撃の拠点)として小笠山・中村・能ヶ坂・火ヶ峰・獅子ヶ鼻・三井山の6ヶ所に砦を築いて武田方の滝堺・小山城との兵站を断ち、10月22日より高天神城の周囲に軍勢を布陣させるとともに城の四方に大きな堀と土塁を築いて警戒の兵も配置し、厳重な包囲網を完成させたのである。
家康はそれから2ヶ月滞陣した後の12月22日には一旦浜松へと戻った。そして翌天正9年(1581)3月には再び本陣に帰陣している。
具体的に戦いがあったのは翌天正9年(1581)3月22日のことであった。この日、徳川勢の榊原康政本多忠勝鳥居元忠らが城攻めを始め、進退窮まった岡部元信らに率いられた城兵は打って出たが、岡部元信は討死した。これに対し、軍監の横田尹松は徳川軍の指物を拾い、味方をも欺いて城を脱出して甲斐国に逃げ戻ったという。高天神城には「犬戻り・猿戻り」と呼ばれる難所があり、そこが抜け道となっていたのである。
高天神落城後、城内の牢屋からひとりの男が救出された。大河内正局といい、先述した天正2年の高天神城の戦いの際に家康の軍目付として城内にあったが、武田方に降伏しなかったために捕えられ、そのまま土牢に幽閉されていたのであった。家康は、敵に捕えられながらも7年間に亘って節を曲げなかった正局の忠節を賞し、厚遇している。

ところで、通説では、この高天神城に籠もった城兵たちは降伏勧告を容れずに抵抗を続け、最後には全軍が打って出て陥落したとされているが、近年の研究では、織田信長から徳川方への援軍として派遣されていた水野忠重宛て天正9年1月25日付の書状で、高天神城より寄せ手に向かって矢文が放たれ、降伏を申し出ていたことが明らかとなっている。その矢文には、助命してくれるのであれば小山・滝堺城をも併せて開城するように図るとも記されており、この矢文の発信者は岡部元信であったと目されている。
しかし信長はこの書状において、あえて降伏と開城を許さず、武田勢の後詰を迎えられないという状況下で高天神城を落城させれば「武田は恃みにならず」との印象が武田方諸城にまで浸透して求心力の低下は免れ得ず、その後に予定している甲斐・信濃国攻めがやりやすくなるだろうとの考えを述べつつ、開城受諾の可否は徳川家中に委ねるように、と伝えている。
結果的に家康は信長の意向を容れてか高天神城を力攻めにして落とし、翌天正10年(1582)2月より行われた武田征伐の緒戦において、武田方諸城はあっけないほどの自落を重ねているのである。