榊原康政(さかきばら・やすまさ) 1548〜1606

徳川家臣。三河国上野に生まれる。童名を亀。通称は子平太。式部大輔・従五位下。
榊原氏は康政の祖父・清長の代に三河国に移住して松平氏に仕え、康政は永禄3年(1560)の桶狭間の合戦ののち、大樹寺にて初めて徳川家康に謁して側近く仕えた。
永禄6年(1563)からの三河一向一揆鎮定戦(上和田の合戦)に活躍、家康の諱を受けて康政と名乗った。
翌7年(1564)の三河国吉田城に小原鎮実を攻めたときに旗本の先鋒を果たして功を挙げ、以後は常にこの「御旗本先手侍大将」の役を勤めるようになり、『徳川四天王』のひとりに数えられることとなった。
元亀元年(1570)6月の姉川の合戦、3年(1573)12月の三方ヶ原の合戦、天正3年(1575)5月の長篠の合戦、9年(1581)3月の高天神城の戦い:その2など、幾多の合戦に従軍、奮戦した。
天正10年(1582)6月の本能寺の変に際しては上京しており、本多忠勝らと共に家康の伊賀越えでの帰還に随従している。
天正12年(1584)4月の小牧・長久手の合戦では羽柴秀吉を「野人の子、馬前の走卒」と罵って味方の士気を鼓舞したという。当の秀吉もこの剛毅さを愛し、天正14年(1586)11月に従五位下・式部大輔に推した。
天正18年(1590)の小田原征伐では伊豆国山中城を攻めた。この戦後に家康が関東に入国した際、上野国館林10万石を領した。これも秀吉の指示によるものという。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では、康政は秀忠に付されている。秀忠軍は中仙道を西上、美濃路において家康率いる本軍と合流する手筈となっていたが、行軍の途中の信濃国上田において真田昌幸幸村父子に翻弄され(上田城の戦い:その2)、9月15日の関ヶ原の合戦には間に合わなかったのである。家康はこれに腹を立てて戦後、秀忠の謁見を許さなかったが、康政は家康に家康・秀忠双方の落度を述べ、涙ながらに説得したという。この説得により秀忠は謁見を許された。
関ヶ原の役後は、吏僚派の本多正信正純らと対立して、政治の表面から身を退いた。
慶長11年(1606)5月14日没。59歳。法名は養林院殿前大守職上誉見向大禅定門。