保科正直(ほしな・まさなお) 1542〜1601

武田家臣。通称は甚四郎。越前守・弾正忠。武田信玄勝頼の2代に仕えて「槍弾正」の異名を持った保科正俊の子。勝頼の代には、南信濃の飯田城の守将だった。
天正10年(1582)の織田信長による甲州攻め(武田征伐)の際には信濃国高遠城の守備にあたったが、信長に降伏するために城を降った。同年6月の本能寺の変後は一時期北条氏直に属したが、のちに徳川家康が甲斐国を支配下に収めて氏直と対立したこと、正直と不仲であった小笠原貞慶や藤原頼親が羽柴秀吉に属したことなどを受けて家康に仕えるようになり、伊那で2万5千石を領した。
天正13年(1585)、信濃国上田城の戦いに参陣。同年12月に小笠原貞慶が高遠城を囲んだときにはよく防ぎ、これを破る活躍を見せた。
天正18年(1590)小田原征伐や翌年(1591)の九戸政実の乱鎮圧にも従軍。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役後、旧領の高遠城3万石に復した。
慶長6年(1601)9月29日、高遠城にて没した。享年60。墓所は信濃国伊那郡高遠建福寺。法名は天関透公建福寺。