(本願寺)教如(ほんがんじ・きょうにょ) 1558〜1614

真宗大谷派の僧。大谷派本願寺(東本願寺)第12世。顕如の長子。母は細川晴元の女。永禄元年(1558)9月16日に生まれた。幼名は茶々丸。諱は光寿。法印・大僧正。
元亀元年(1570)に得度して法嗣となった。
同年より始まった石山合戦には、父・顕如をよく助けて戦った。が、天正8年(1580)閏3月に和議が成立し、顕如が紀伊国へ退去したとき、徹底抗戦派だった教如は石山本願寺にとどまり、諸国の末寺から門徒を集めて抗戦を続けようとした。このため顕如から義絶され、顕如は教如の弟・准如を跡継ぎに定めた。これが後に東・西本願寺分立の原因になった。
しかし教如も結局は戦わず、同年8月に石山本願寺を退去し、各地を移動したが天正10年(1582)の織田信長の死後、顕如と共に住んだ。
天正20年(=文禄元年:1592)に顕如が死ぬと第12世法主となったが内紛が起こり、翌年閏9月に羽柴秀吉に隠退を命ぜられ、本願寺の住職は弟・准如となった。しかし秀吉の没後は徳川家康の保護を受けて京都七条烏丸の地を与えられ、慶長8年(1603)新たに本願寺を建立した。これが東本願寺である。ここに本願寺は東西に分立することとなった。
慶長9年(1604)8月、大僧正となる。
慶長19年(1614)10月5日死去。57歳。諡は信浄院。
生前に近江国長浜・五村・大津、摂津国難波・天満・茨木、山城国伏見、越前国福井など全国18ヶ所に御坊(別院)を建て、東本願寺教団の基礎を固めている。