石川家成(いしかわ・いえなり) 1535〜1609

徳川家臣。石川忠成(別称を清兼)の三男。母は水野忠政の娘で、徳川家康の母(於大・伝通院)の姉にあたる。通称は彦五郎。妻は竹谷松平清善の女。日向守。
主君・家康の初陣となった弘治4年(=永禄元年:1558)2月の三河国寺部城の戦いに先鋒として従軍し、永禄3年(1560)5月の桶狭間の合戦に先立つ丸根砦攻めにも酒井忠次とともに徳川勢の先鋒を務め、永禄5年(1562)1月に家康が織田信長と尾張国清洲にて会盟を約したときにも随行。また、永禄6年(1563)9月からの三河国一向一揆の鎮定に際しては、一揆方の本証寺に加担した一族とは別行動を取り、浄土宗に改宗して家康に従った。
これらの功績から、家康が永禄8〜10年(1565〜1567)にかけて「三備」と称される軍制再編を行った際に西三河の旗頭に任じられた。家康の草創期より仕えてよく補佐し、家康からも並々ならぬ信任を受けていたことがうかがわれる。
永禄12年(1569)5月に家康が今川氏真を没落させて遠江国を支配下に収めると、遠江国掛川城の守将に任じられた。またこのとき、西三河の旗頭の地位を甥にあたる石川数正に譲っている。
元亀元年(1570)、織田信長が近江国坂本で浅井・朝倉連合軍と対峙したとき、家康から信長への援兵として出陣した。
天正8年(1580)に隠居し、嫡男の石川康通に家督を譲る。
小田原征伐を経て天正18年(1590)に徳川氏が関東に移封した際、伊豆国梅縄に5千石を与えられる。
慶長12年(1607)7月、美濃国大垣藩主となっていた康通が家成に先立って没したが、康通の子・忠義が幼少であったため、再び家督に就いて2代藩主となり、大垣城に入城した。
慶長14年(1609)10月19日(一説には29日)、大垣城にて死去。享年76。