上条定憲(じょうじょう・さだのり) ?〜?

上条定明の子。越後守護・上杉定実の甥にあたる。通称は七郎。兵庫頭・播磨守。越後国刈羽郡上条城主。
永正6年(1509)7月末、実弟で越後守護であった上杉房能を越後守護代・長尾為景に討たれた関東管領・上杉顕定が越後国に侵攻すると、顕定に味方して上杉定実・長尾為景を越中国に逐ったが、翌年6月には反撃に転じた為景らに応じて復帰を支援した。
こののち、勢威を増した為景と定実が不和となると定実に与し、永正10年(1512)頃には国人領主の宇佐美房忠と共に為景包囲網の形成を企図しているが、為景の増長を抑えることはできなかった。
享禄3年(1530)10月、上条城に拠って為景に反抗するが、政治力に勝る為景は幕府に要請して定憲への合力を禁止する旨の御内書を翌年2月に得たため、定憲の立場は苦しいものとなった。
天文2年(1533)9月に再び挙兵し、翌年5月の納下の合戦では為景方の北条(毛利北条)氏の軍勢に敗れるが、長尾房長・宇佐美定満らと結び、天文4年(1535)6月に至っては上条城を出陣して蒲原郡まで侵攻した。
この後、定憲は揚北衆や陸奥国の伊達氏や蘆名氏、出羽国の大宝寺氏らをも味方につけて為景を圧迫。越後国内の反抗勢力のみならず、隣国の勢力の介入をも許すことになった事態に為景は天文5年(1536)8月、家督を子・晴景に譲っての隠退へと追い込まれている(越後享禄・天文の乱)。
生没年不詳であるが、天文8年(1539)までは史料によって存在が確認できる。