上杉定実(うえすぎ・さだざね) ?〜1550

越後守護。上杉房実の子。兵庫頭。
文亀3年(1503)に越後守護・上杉房能の養子となる。
永正4年(1507)、守護代・長尾為景に推戴されて房能を自害させ(天水越の合戦)、翌年11月に幕府より正式に認められて越後守護となった。
しかし、これを怒った房能の兄で関東管領・上杉顕定の侵攻を受け、支えきれずに為景らと共に越中国に逃亡したが、永正7年(1510)、越後国長森原にて顕定と戦ってこれを滅ぼし、越後国に復帰した。
だが国政の実権は為景が握っていたため間もなく不和となり、永正10年(1513)には為景を除くため重臣・宇佐美房忠らと共に挙兵したが敗れ、為景の居館に幽閉された。
これによって守護権力を為景に簒奪されたが、為景の引退後に為景嫡子・長尾晴景に擁され、越後守護の地位を回復した。
嗣子がなかったため、伊達稙宗の三男・時宗丸(のちの伊達実元)を養子に迎えようとする(伊達時宗丸入嗣問題)が、これに反発する国人領主らも多かったため、国人領主ら同士による内乱を招いた。
この内乱を鎮められなかった晴景に代わって晴景の弟・景虎(のちの上杉謙信)が頭角を顕してくると、晴景と景虎は不和になったがこの両者を和解させ、景虎を春日山城主につけた。
天文19年(1550)2月26日没。法号は永徳院天仲玄清。
この定実を最後として越後守護上杉氏は断絶した。