伊達時宗丸(だてときむねまる)入嗣問題

越後守護・上杉定実が、嗣子(後継者)として伊達稙宗の三男・時宗丸(長じて伊達実元)を迎えようとしたことに端を発する係争。
稙宗の母は定実の娘(一説には姉妹)であることから時宗丸は定実の外曾孫にあたり、越後方でこの時宗丸の入嗣を積極的に推進したのは揚北衆・中条藤資であった。
この縁組は天文8年(1539)11月、越後守護代・長尾晴景の反対で立ち消えになったかのように見えたが、翌年には再び持ち上がり、越後国内ではその賛否をめぐって国内が分裂したことから揚北領主間同士の紛争が派生し、「援軍」を名目とした伊達軍勢の介入を招くに至っている。
また、伊達氏内部では稙宗と稙宗の嫡男・晴宗が対立が顕著となり、稙宗が時宗丸入嗣を強行させようとしたことを発端に天文11年(1542)6月より武力対決に至る(伊達氏天文の乱、別称を洞の乱)。この闘争はそれぞれの一族や、外戚にあたる周辺の国人庶家にまで波及した。
この伊達氏天文の乱は天文17年(1548)9月、将軍・足利義輝からの停戦命令を受けて稙宗・晴宗が和睦したことで終息した。
また時宗丸の入嗣も履行されることなく、天文19年(1550)に上杉定実が没したことで越後守護・上杉氏は断絶を迎えている。