伊達氏は鎌倉時代より陸奥国伊達郡地頭として勢力を張った名族であるが、伊達稙宗が大永2年(1522)に陸奥守護に補任されたのちは国人領主間の相論の調停や広範な婚姻・入嗣政策で更にその勢力を伸張させた。稙宗は天文4年(1535)に『棟役日記』、天文5年(1536)に『塵芥集』、天文7年(1538)に『段銭古帳』を作成しているが、これらは領主の権益に関することを定めたものであり、徴税や軍役に関する体制を強化して大名権力を一手に集約することを目論んだものと見られる。
この稙宗の強行的な政策によって軋轢が生じた。稙宗に叛いたのは家臣層ではなく、嫡男の晴宗であった。天文11年(1542)6月、伊達時宗丸入嗣問題を機に、晴宗が稙宗をその居城・桑折西山城に幽閉する挙に及んだのである。
稙宗は間もなく小梁川宗朝によって救出されて懸田城に移り、稙宗を擁した諸将は晴宗に和睦を打診したが、晴宗はこれを拒否。このため、同年9月より稙宗方が桑折西山城を攻めたことを皮切りに伊達家中を二分する内訌となり、さらにはその姻族をも巻き込む争乱に波及することとなったのである。
稙宗方には相馬顕胤・田村隆顕・二階堂輝行・蘆名盛氏・二本松(畠山)義氏・石橋(塩松)尚義・懸田俊宗父子・亘理宗隆・黒川景氏・国分宗綱・葛西晴胤・大崎義宣・最上義守らが加担した。このうち葛西晴胤・大崎義宣は稙宗の実子(晴宗には実弟)であり、蘆名盛氏・二階堂輝行・田村隆顕・懸田俊宗・相馬顕胤は稙宗の娘婿であるように、姻族の与力が多い。対する晴宗陣営には、岳父の岩城重隆や叔父・留守景宗といった一族衆、本宮宗頼や白石実綱(宗綱)ら譜代家臣の多くが与した。稙宗はこれまでの婚姻政策で培ってきた諸将を動員し、晴宗はそれに反発する者、あるいは旧来の体制の打破を目論む勢力を糾合したように、いわば保守派と革新派の対決という構図である。
はじめは稙宗陣営が優勢で、天文15年(1546)2月には相馬顕胤らの奮戦によって桑折西山城を抜き、晴宗を白石城に逐っている。
しかし、とくに稙宗陣営に参じた諸将の多くは姻戚関係にある者で、稙宗直属の家臣ではない。それぞれが自勢力の拡大を目論んでの参戦であり、情勢の変化を読んで晴宗陣営に鞍替えする者も少なくなかった。蘆名盛氏や最上義守などがそうである。さらに晴宗方には、岩城重隆の姻族である常陸国の佐竹氏が支援に乗り出し、相馬領を脅かしていた。
これが功を奏してか、天文16年(1547)の秋頃より戦況は晴宗方に傾きはじめ、翌天文17年(1548)3月には和睦に向けた動きも見えている。同年5月には将軍・足利義輝から停戦を命じる書状が届き、9月に至って和議を結ぶこととなったのである。
和睦の条件は、稙宗は属城の桑折西山城と懸田城を破却、伊具郡丸森城に移って隠居すること、晴宗が伊達氏家督を相続するというもので、実質的に晴宗方の勝利に帰したのである。
惣領となった晴宗は本拠を出羽国米沢に移すとともに、天文22年(1553)1月には家臣団に対し、乱中に発給した知行宛行の判物を全て破棄し、改めて一斉に再発給している。これに際して棟役・段銭・諸公事を免除しているために稙宗時代より低姿勢にも見えるが、実際には自己の意向を反映させた論功行賞や知行地の再編を行ったことで敵対勢力を排除し、大名権力を一層強固なものとすることに成功している。
この乱の別称を、「洞(うつろ)の乱」ともいう。