相馬顕胤(そうま・あきたね) 1508〜1549

相馬氏第14代当主。陸奥国行方郡小高城主。13代の相馬(大膳大夫)盛胤の子。通称は孫次郎。兵部大夫・讃岐守。
身の丈は人並み外れて大きく、大力の勇将であったと伝わる。
大永4年(1524)、伊達稙宗の長女を正室に娶る。
天文年間(1532〜1555)の初期、岳父である稙宗からの依頼で稙宗の子・晴宗と岩城大館城主・岩城重隆の娘との縁組を仲介したが、これを取りまとめたのちに重隆が約束を違えて白川氏との縁組を決めたために面目を潰され、しばしば岩城領の楢葉郡に侵攻した。この抗争は相馬氏が岩城方の富岡城・木戸城・四倉城を落とすなどして優位に進めており、岩城氏が違約の非を認めて伊達氏との婚姻に応じたので和睦に至ったという。
天文11年(1542)から始まる伊達氏天文の乱には伊達稙宗を支援して伊達晴宗勢と戦い、天文13年(1544)から翌年にかけては伊達領の伊具郡に侵攻して東根や宇多をほぼ制圧する活躍を見せ、天文15年(1546)には晴宗方の桑折西山城を攻めて陥落させて稙宗を西山城に復帰させるとともに晴宗を刈田郡の白石城に逐うなど、一貫して稙宗の擁護に徹している。
天文18年(1549)2月2日死去。42歳。