斯波氏の重臣。通称は八郎・美濃入道。別称を甲斐常治。美濃守。越前守護代。
応永27年(1420)に没した父・甲斐将教(祐徳)のあとを受けて越前・遠江の在京守護代を務めた。
斯波義淳・義郷・義健の3代に亘って補佐して、同じく斯波氏の重臣である朝倉・織田の両氏を凌ぎ、主家に匹敵するほどの権勢を揮った。
享徳元年(1452)9月に義健が死没したことで斯波武衛家(斯波氏の本家)が断絶すると、支族から義敏を迎えるため、朝倉敏景らとともに奔走した。
将久は守護代として積極的に領国経営にあたると同時に、諸郷の代官補任人事に介入するなどして独自に国人領主層の掌握と荘郷支配をも強力に推し進めていた。この過程において領国支配の実権を掌握していたが、それに反発した義敏が将久を冷遇したために対立するに至る。その理由は、義敏が家督相続に際しての将久の功績を無視して将久の弟・甲斐近江守を甲斐氏の家督に着けようとしたためとも、将久の専横の振る舞いが強すぎたためともいわれる。
この義敏と将久の対立は長禄2年(1458)2月の幕府の斡旋によって落着したかに見えたが、半年を経ずして再燃し、長禄合戦と呼ばれる越前国を二分する内乱にまで発展することとなった。
この長禄合戦でははじめ、堀江利真を中心とする義敏勢の圧迫を受けて不利な戦況であったが、義敏が将軍・足利義政による和議斡旋にも頑として応じようとしなかったため、長禄3年(1459)3月には幕府が公然と甲斐方の支援を表明、5月には義敏は解職された。これを契機として甲斐方勢力が盛り返したが、同年8月12日の夜、越前国敦賀の陣中で没した。
奇しくも将久の死と時を同じくして長禄合戦は終息するが、この長禄合戦において朝倉敏景が勢力を大きく伸張させたため、のちに対立・抗争することになり、甲斐氏は没落する。