斯波義健(しば・よしたけ) 1435〜1452

斯波義郷の嫡男。幼名は千代徳丸。妻は吉良氏の娘。従五位下・治部大輔。越前・尾張・遠江守護。
永享8年(1436)9月30日、越前・尾張・遠江国の守護であった父の義郷が落馬のために死去すると、義健がわずか2歳で斯波氏の家督ならびに3国の守護職を相続することとなった。
長じるまでの事績はほとんど不明であるが、斯波一族の重鎮で越前国大野郡司の斯波持種から扶持を受け、越前・遠江の守護代を兼ねる甲斐将久(常治)を執事としてその後見を受けた。
しかし未だ幼少のため加判能力(家中や領国の運営能力)が備わっておらず、永享11年(1439)の時点においては幕府からの命令が義健宛てに出されると、甲斐将久が直接に差配していることが認められ、この体制は義健が元服するまで続けられたものと思われる。
宝徳3年(1451)11月21日に斯波持種の加冠で元服したが、翌宝徳4年(=享徳元年:1452)の春頃から病気に罹り、嗣子のないままに9月1日に早世した。享年18。法名は道寿。
系図によっては男子がいたともされるが事実関係は不明で、結果的には斯波持種の子の斯波義敏が家督を継承した。