蠣崎光広(かきざき・みつひろ) 1456〜1518

安東家臣。蠣崎(武田)信広の嫡男。康正2年(1456)3月に生まれる。蝦夷ヶ島上ノ国の勝山館主。上ノ国守護。
父・信広の死から2年後の明応5年(1496)、渡島半島の館主の中心となって松前守護・下国恒季の悪政を安東氏惣領・安東忠季に陳情し、その排斥に成功する。
松前守護ならびに大館館主の後任には相原季胤が据えられるが、永正9年(1512)4月に蝦夷ヶ島東部アイヌの酋長ショヤ・コウジ兄弟が蜂起し、翌年6月に松前の大館がアイヌに攻撃されて相原季胤らが戦死すると、翌永正11年(1514)3月に上ノ国から松前に入部して大館を整備して徳山館とし、事実上の松前守護職に就いた。しかし、このアイヌ軍の松前襲撃については、『松前累系』には「大館に於いて光広の兵と戦う。守護人相原彦三郎季胤、村上三河守政儀負て自害す」と記されており、松前守護職を窺う光広の画策した謀略であったということも考えられる。
永正12年(1515)6月、和人との戦いで連勝して勢いに乗るショヤ・コウジ兄弟に率いられた東部アイヌ軍に徳山館を攻められると、和睦の交渉と偽ってアイヌ軍の酋長兄弟や主だった者を徳山館に招き、謀殺してアイヌの蜂起を鎮定した。
この功績を掲げて安東氏惣領・安東尋季(忠季の子)に松前守護職の追認を2度に亘って願い出たが許されなかった。しかし、紺備後という弁舌に長けた者を派遣して、嫡男・義広に松前守護職を安堵され、宿願であった渡島半島の支配権を委ねられた。
永正15年(1518)7月12日死去。享年63。