肥前国松浦氏の重臣。左衛門尉・兵部少輔。肥前国生月島・度島の領主で、平戸島内では獅子・飯良・春日村を領した。
籠手田氏は松浦党の田平氏の流れを汲み、田平栄が籠手田の地を知行して籠手田氏を称したのが始まりで、この安経は籠手田(田平)栄の子・安昌の子である。
ルイス=フロイスによれば、松浦隆信(道可)が家督を継ぐに際して籠手田安昌の尽力が大きかったため、隆信は安昌の子である安経に対して「多大な恩義を蒙っていることを念頭に置いていた」といい、その地位を「平戸の王(松浦氏)に次ぐ有力なる人にして、陣中の総大将なり」と評している。
キリスト教の宣教師が松浦隆信に対して入信を求めたとき、隆信が自分の名代として安経を入信させたことからキリスト教に帰依し、ドン=アントニオと称した。
松浦隆信はポルトガルとの貿易で利を得るためにキリスト教宣教師の布教を許したが、領内で宣教師と仏寺の僧侶との対立が顕著となると、永禄元年(1558)頃よりキリスト教の弾圧を始めたため、安経はトルレス神父に自領での布教を認め、領内に教会・聖堂などを建て、仏像を焼き捨てるなどした。このため、家族・家臣・領民も多数キリシタンとなり、安経の所領は松浦氏の領国内ではキリスト教が最も活気に満ちた地域となった。
隆信がキリシタンを弾圧する中でも自身は固く信仰を守ってこれを庇護する姿勢を崩さなかったこと、松浦氏の政敵であった大村純忠とは同じキリシタンで昵懇であったことなどから、隆信との間で緊張が高まった。永禄8年(1565)9月に隆信が大村領福田港のポルトガル船攻撃に及んだ際もこれに反対し、参加しなかった。
天正10年(1582)初頭に扁桃腺炎で急死したが(一説には天正9年)、勇将として数々の戦功があったので、キリスト教を敵視する松浦鎮信(法印)もその死を惜しんだ。その葬儀にはキリシタンたちだけでなく、仏教徒の家臣たちも参列したという。
妻はドナ=イサベル、嫡子の安一はドン=ジェロニモと称し、安経の死後も領内のキリシタンを保護した。