松浦隆信(まつら・たかのぶ) 1529〜1599

肥前国平戸の国人領主。松浦興信の嫡男。母はその後妻で波多興の女。通称は源三郎。肥前守。道可と号す。肥前国勝尾岳城(別称:白狐山城)主。
大内義隆の偏諱を受けて隆信と名乗る。
天文10年(1541)、父・興信の死去により家督を継ぐ。このとき隆信は幼少で若年であったため、重臣の多くは他の者を推したが、一族の籠手田安昌が反対意見を抑えて隆信に家督を相続させたという。
天文19年(1550)、ポルトガル船の平戸入港に合わせてキリスト教の宣教師・ザビエルが訪れた際、貿易から生み出される利益に期待をかけた隆信はこれを歓待して布教を許し、平戸をポルトガル貿易の中心地に育てた。
しかし永禄元年(1558)頃より領内のキリスト教神父と仏寺僧侶との対立が顕著となり、永禄4年(1561)8月に平戸の七郎宮の前で取引に関して起こった騒動を契機としてポルトガル人との関係が急速に悪化した。このためにポルトガル船の入港地は翌永禄5年(1562)より大村純忠領の横瀬浦に移るも、永禄6年(1563)の大村氏での内訌によって横瀬浦が壊滅したため、永禄7年(1564)に平戸が再び貿易港となる。しかし松浦氏が布教の援助に消極的であったため、永禄8年(1565)には大村領の福田浦が新たな貿易港となった。しかし隆信はこれを不満とし、同年9月に福田浦に停泊していたポルトガル船への襲撃を敢行したが、撃退されている。
この間の永禄6年には直谷城に拠る志佐氏の内訌に介入して支配下に組み込み、永禄9年(1566)頃には飯盛城に拠る相神浦氏を降し、三男を入嗣させて相神浦氏の実権を握るなどして、父祖の代より受け継いだ津吉・生月・田平・江迎・佐々・大島・度島などの所領に加えて鷹島・佐世保・日宇・早岐・志佐および壱岐・針生島・相神浦などを支配し、松浦氏はこの隆信の時代に戦国大名化を遂げた。
永禄11年(1568)に家督を嫡男・鎮信に譲ったのちも領主権の確保につとめ、天正15年(1587)の九州征伐に際して子・鎮信と共に羽柴秀吉方に与して出陣し、所領を安堵された。
慶長4年(1599)3月6日没。享年71。法名は印山道可尊勝院。