香宗我部親秀(こうそかべ・ちかひで) ?〜?

土佐国の国人領主。右衛門尉。土佐国香美郡香宗城主。
大永6年(1526)、安芸城主・安芸元親に香宗城を攻められて嫡男の秀義を失ったため弟・秀通を嗣子として家督を譲ったが、威勢の衰退を止められず、天文15年(1546)、台頭著しい長宗我部国親の三男・親泰を継嗣とすることで長宗我部氏との連携を画策した。しかしこの処置に秀通が抵抗したため、弘治2年(1556)10月、秀通の居館に刺客を送って秀通を誅殺し、永禄元年(1558)に秀通の娘婿として親泰を迎えて香宗我部氏の家督を継承させた。
その後は中山田村に隠居し、秀通の妻の実家である十市城主・細川定輔(宗桃)のもとに庇護されていた遺児の泰吉・秀政を引き取って養育、共に親泰をよく補佐して香宗我部氏の発展に尽力した。