石見国美濃郡益田荘を本領とした国人領主。益田兼堯の子。通称は又次郎。治部少輔・越中守。
益田氏は御神本(みかもと)一族の惣領を称し、同じく石見国の国人領主の三隅・周布・福屋氏らは祖を辿れば同族である。
中国地方の大大名・大内氏に属し、寛正6年(1465)に大内教弘が伊予国に侵攻した際(寛正伊予の乱)に貞兼もこれに従ったが、この大内氏の行動は幕府管領・細川氏に敵対するものであったため、このとき京都で幕府に出仕していた父・兼堯は幕府から処罰されそうになり、山口に逃亡したという。
応仁の乱に際しても西軍に与した大内政弘に属し、政弘が未だ出征していた文明2年(1470)に大内教幸(道頓)が東軍に与して長門国で叛乱を起こすと、義兄弟で大内氏重臣の陶弘護と協力してこれを鎮圧した。
これらの戦功から石見国の本領の他に周防国富郷、長門国島本方なども加増され、益田氏の全盛期を築いた。
明応年間(1492〜1501)に至ると、益田氏の活動の中心は子・宗兼になっていることから、この頃までには家督を譲っていたと思われる。
大永6年(1526)7月20日死去。