室町時代の伊予国は河野氏が守護に任じられていたが、永享年間(1429〜1441)には惣領家と予州家と呼ばれる分家とで対立が生じていた。この抗争は幕府内の実権を握る管領職をめぐる権力闘争とも密接に関係し、河野惣領家の河野教通は畠山持国から、予州家の河野通春は細川勝元から支持を受け、畠山氏が管領の時期は教通が、細川氏が管領になると通春が伊予守護職に就くという具合であったが、畠山氏でも内訌が起こり、さらには享徳4年(=康正元年:1455)3月に持国が没すると畠山氏の権勢の衰退は明らかとなり、同年の暮れに細川勝元が伊予守護に補任されると河野通春方が優勢となったのである。
しかしこの通春と細川氏の蜜月は長くは続かず、寛正年間(1460〜1466)になると決裂するに至り、勝元は「通春の不義が露顕した」として幕府に働きかけて通春討伐の命令を出させることに成功したのである。
勝元の言うこの「不義」とは詳らかでないが、当時の細川氏は一族で阿波・讃岐・土佐の3国の守護職にあり、伊予守護には河野通春が復していたが、勝元はその河野氏を排除し、伊予守護を収奪しての四国制覇を企図したことは推察に難くない。
伊予国への攻勢がいつから始まったかは明確ではないが、寛正3年(1462)には通春と細川一族で阿波守護の細川成之の軍勢とが交戦しており、寛正5年(1464)11月に幕府は周防・長門・豊前・筑前の守護を兼ねる大内教弘に伊予国への出陣を求め、翌寛正6年(1465)3月には了承する旨の返答を得ている。また同年6月には安芸国の毛利・吉川・小早川氏や石見国の出羽・徳屋氏らにも細川勝元への合力が要請されており、これらの軍勢は8月頃には安芸灘の島々から渡海して在陣している。
また、勝元は伊予の隣国である讃岐・土佐国の守護を兼ねていたことから、両国の国人領主らを通じて伊予国に影響力を浸透させ、大野・森山・重見氏らをして通春に反抗させて圧迫し、ついには居城である湯築城から逐って土佐守護代・新開遠江守を入城させた。
これに対して通春は湊山城に籠もり、教通の留守を守って在国していた河野通生(教通の弟)と結んで細川勢に対抗したのである。
しかし間もなく予期せぬ出来事が起こる。興居島に布陣して湊山城を牽制していた大内勢が、突如として河野方に転じたのである。
大内氏と細川氏は瀬戸内海を通じて勢力を接しており、伊予国までをも細川氏の分国とすることは、大内氏にとって好ましからざる事態であった。また、安芸国での勢力拡張を推進して安芸国の分郡守護であった武田氏との紛争を抱えていた大内氏にとって、戦略的見地からも瀬戸内海西域は是が非でも確保しておかなければならない地域であり、この抗争に細川氏の主導する幕府が武田氏を支援したことなどが相まって大内氏を背反に向かわせたのであろう。
大内教弘は興居島に上陸して間もなくの9月3日に病没し、これを伝え聞いた細川勝元は「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と述べたというが、同道していた教弘の子・政弘は河野氏支援の姿勢を変えることなく、興居島から湊山城を救援しつつ湯築城へ兵を送って陥落させた。9月16日付の大内政弘から内藤弘矩に与えられた感状にある「井付合戦」とは、この湯築城の攻城戦だと思われる。また、細川方であった森山・重見氏らも討ち果たされ、細川勢は駆逐されたのである。
この寛正伊予の乱において、屈指の有力大名であった細川氏と大内氏の決裂が決定的となった。そしてこの2年後に起こる応仁の乱において、東軍の総帥となった細川氏に対抗して大内氏が西軍に与する遠因のひとつになったといえよう。