河野通春(こうの・みちはる) ?〜1482

伊予国河野氏・予州家(分家)の武将。河野通之の孫。河野通元の子。伊予守。
河野氏宗家と予州家による家督をめぐる抗争は、河野通義が死没前にその弟・通之に家督を譲る際に「(通義の)妻が男児を出産したら、その子に家督を相続させるように」と遺言したことに始まる。やがて通義の妻は男児・河野通久を出産したため、通之は通久に河野氏惣領の地位を譲るが、これを不満とした通之の子・通元が通久に敵対したのである。この内訌は室町幕府が調停に介入したにも関わらず解決を見ぬまま次代に持ち越されることとなり、通春は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱以来、河野氏の主導権をめぐって宗家の河野教通と対立した。
この対立において通春が反宗家の将卒を糾合したのに対し、教通は安芸国小早川氏らの支援を取り付けた。また、この河野氏惣領をめぐる内訌は幕府における細川氏と畠山氏の管領職の争いにも結びつき、通春は細川勝元、教通は畠山持国の派閥に与することとなる。
享徳4年(=康正元年:1455)に持国が没したことにより管領職の争いでは勝元が、河野氏惣領の争いでは通春が優位に立つことになったが、伊予国の直接支配を目論む勝元が寛正6年(1465)に大内・小早川・毛利氏ら中国地方の軍勢を派遣したことから不和となった。
この細川氏の軍勢に対して通春は教通と共同して抗するが、かねてから細川氏に不満を持つ大内教弘が離反して通春を援け、大内教弘の没後は子・政弘が通春を援けたことによって勝元の伊予征服は頓挫した(寛正伊予の乱)。
その後の応仁の乱に際しては、大内氏との関係から西軍に属して京都に出征したが、この間に東軍に与した教通が伊予国内での地歩を固めて巻き返しを図ったため、乱が終息して帰国した後にも再び激しい家督争いを展開することとなる。
細川義春が伊予国に侵攻したときには、一時的に教通と和睦してから細川勢を国外に追放するという戦略を採ったというがその後も教通との対立は解決することなく、結果としてこの内訌が伊予守護家としての河野氏の勢力を弱めることとなった。
文明14年(1482)閏7月14日、伊予国和気郡湊山城にて没した。