村上源氏の流れを汲むと伝わる赤松氏であるが、鎌倉時代には播磨国佐用荘を本拠とする一介の地方武士であった。しかし鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱に乗じて赤松則村(円心)が頭角を現し、足利尊氏が建武政権を倒して室町幕府を樹立すると、それまでの功績を賞されて播磨守護職の地位を得るに至り、さらには則村の子である範資・貞範も摂津・美作国の守護に補任され、一族で3国の守護を兼ねるという大身の武家に成長を遂げたのである。
則村の没後の赤松氏惣領職は範資、範資の後は則村三男の則祐、そののちは則祐の子・義則と受け継がれ、とくに義則は明徳3:元中9年(1392)に幕府の要職である侍所所司に任じられ、三管領家に次ぐ四職家に名を連ねていた。赤松氏は室町幕府の枢要にあってこれを支え、幕府将軍も尊氏から義詮、義満、そして義持と続く。室町幕府の全盛期に歩調を合わせるかのように赤松氏もまたその勢威を高めていたのである。
しかしその赤松氏に災難が降りかかる。応永34年(1427)9月に赤松義則が没してその名跡を義則の嫡子・満祐が継承しようとした際、将軍・足利義持は赤松氏の本貫地を含む播磨国を召し上げ、義持の寵臣で赤松一族の赤松持貞に与えることを命じた。この謂れのない処置に満祐は宥免を願い出たが容れられず、ついには憤慨して京都の自邸を焼き払い、本国である播磨国に戻ったのである。
これを受けた義持は満祐討伐を企てたが、諸大名が義持を諫止したこと、また同年11月に持貞が義持の侍女との不義が発覚して自害させられたことなどによって許され、事なきを得て家督継承に至ったのである。
それから10年後の永享9年(1437)、将軍は義持から義教へと代替わりしていた。この義教は、自分の意にそぐわない者は容赦なく更迭するという強硬な専制人事を揮うことで恐れられており、その圧政は義持の比ではなかった。その義教が、満祐の所領から播磨・美作2国を没収して赤松貞村に与えるとの風聞が流れたのである。
満祐にとって、まさに悪夢の再来としか言いようのない出来事であった。さらには永享12年(1440)3月、義教の側近として仕えていた満祐の弟・義雅が不興を買ったために全所領を没収され、その一部が貞村に与えられるという事件が起こったのである。また5月には同じく義教に睨まれた一色義貫と土岐持頼が謀殺されており、「次は自分の番だ」と恐怖した満祐は「狂乱」と称して幕府への出仕を見合わせるようになった。
この頃より既に義教の排除あるいは殺害を企図していたと思われる。
翌嘉吉元年(1441)4月、関東において懸案のひとつであった結城合戦が決着した。5月にはこの抗争の首謀者である結城氏朝や足利安王丸・春王丸兄弟の首級が京に届くと、義教の布く恐怖政治に薄氷を踏む思いであった在京の守護や公家らはこれ幸いとばかりに義教を戦勝祝賀の宴席に招いた。赤松氏でも新築成った京都西洞院二条の屋敷に猿楽を催して義教を供応することとなり、その日取りは6月24日と決まった。しかし満祐は依然として狂乱と称して隠居しており、この宴席の主人役は満祐嫡男の赤松教康である。
そしてその6月24日、教康は京都屋敷に義教を招き、猿楽の最中に義教殺害を決行。これに成功すると屋敷に火を放ち、本国である播磨国に向けて出立したのである(嘉吉の変)。
京都を脱出した満祐一行は、その日のうちに摂津国の宗禅寺に投宿。翌日には管領・細川持之に宛てて使者を出し、義教の首級が宗禅寺にあることを知らせている。しかし持之はその使者を斬り捨てさせたのみで、それ以上の対応をしていないのである。その後の7月6日に義教の葬儀が執り行われているが、参列した武家は管領の持之のみで、次期将軍の足利義勝や守護らは「物騒」と称してまったく姿を現さなかったという。これらのことから、幕府首脳の狼狽ぶりや危機管理体制が機能していなかったことが窺える。
幕府は満祐追討軍を編成し、7月11日に阿波守護・細川持常を総大将に据えた軍勢が京都を進発した。この軍勢には赤松氏の庶流である赤松貞村・赤松(大河内)満政・赤松(有馬)持家らも従軍している。続いて28日には山陰方面からの軍勢を率いるため、但馬守護・山名宗全も出立した。
一方、播磨国に帰国した満祐らは書写山南麓の坂本を本拠に構え、足利直冬の末裔にあたるという禅僧を還俗させて足利義尊と名乗らせて戴いた。満祐が新政権を樹立させるつもりであったかは不詳であるが、義尊の名で諸大名に軍勢督促状を発し、反幕府勢力を糾合させるための大義名分としたのである。
しかし8月1日、朝廷より満祐追討の綸旨が正式に降された。これによって幕府勢が官軍、反幕府勢が賊軍と位置づけられることになったのである。
7月11日に進発してより幕府軍の進攻は遅々として進んでいなかったが、8月24日と26日の蟹坂(和坂)の合戦で戦況が大きく動く。この合戦で赤松勢が敗北すると、機を窺っていた山名宗全が但馬国生野から進攻、赤松義雅の軍勢を破って坂本に向かったのである。これを受けて赤松勢は坂本から城山城へと退いた。この頃より赤松氏に与していた国人領主らの多くが幕府勢に鞍替えし、大勢は決したのである。
そして9月10日には赤松方の最後の拠点・播磨国城山城が陥落、満祐は一族69人と共に自害して果てた。
この城山落城に際して満祐の嫡男・教康は縁戚にあたる伊勢国司の北畠氏を頼って脱出したが、この北畠氏にも見放され、かの地で自害した。ここに栄華を誇った赤松氏は滅亡したのである。