細川勝元(ほそかわ・かつもと) 1430〜1473

管領・細川持之の嫡子。幼名は聡明丸。通称は六郎。右京大夫・武蔵守・従四位下。仁栄と号す。
嘉吉2年(1442)8月の持之死後に家督を相続し、摂津国・丹波国・讃岐国・阿波国の守護となった。
文安2年(1445)、16歳で室町幕府の管領職に任じられたのを最初に、3度(文安2〜宝徳元(1449)、享徳元(1452)〜寛正5(1464)、応仁2(1468)〜文明5(1473))通算21年間、管領職にあった。
はじめ山名宗全(持豊)の女婿となることで宗全と結んで政敵・畠山持国を退けるなど、宗全との協調によって細川氏の勢力維持を図り、寛正5年から12年間に亘って管領の地位を独占し、幕政の実権を掌握する。しかし嘉吉の乱で没落した赤松氏の再興運動が起こると勝元はこれを支援したため、赤松氏と敵対関係にある宗全とも対立するようになった。
また、畠山政長畠山義就による畠山氏の家督争いには政長派を、斯波義廉斯波義敏の斯波氏の家督争いには義敏派を支持するなど、宗全とことごとく対立。
この幕政の有力者である勝元と宗全の対立が顕わになると、東海・北陸から九州北部までに至る諸大名間の争いはすべてこの2人の対立と結びつき、各地においても細川派と山名派の2派に集約されることとなった。
さらには足利義視義尚の将軍職の継嗣争いにおいて勝元は義視を支持、宗全は義尚とその母・日野富子に与したために両派の対立は一層激化した。この対立が応仁の乱を引き起こしたのである。
勝元は将軍・足利義政を奉じ、自身も東軍の総大将となって戦ったが、この後6年間に及ぶ戦乱は京都を焦土と化すことになる。
西軍の総大将・宗全が文明5年(1473)3月に病死したのに続き、勝元も5月11日に病死した。44歳。法名は竜安寺仁栄宗宝。
両軍総大将の相次ぐ死によって戦乱は一時小康状態となったが、地方へと拡大し、戦国乱世の誘因となった。
禅宗に深く帰依し、京都に竜安寺、丹波国に竜興寺を建立した。また、和歌・絵画などを嗜む文化人でもあり、医術を研究して医書『霊蘭集』を著すなど、多才であったという。