畠山持富の子。畠山義富の弟。通称は次郎(または弥二郎)。従三位・尾張守・弾正小弼・左衛門督・左衛門尉。勝仙院と号す。
伯父で畠山氏の惣領であった畠山持国は嗣子に恵まれなかったために異母弟の持富を養子としていたが、永享9年(1437)頃に実子・畠山義就が生まれ、文安5年(1448)11月に義就に家督を継がせようとしたことによって、家中に持国・義就派と持富派に分かれての分裂抗争が生じた。
持富が没したのちは義富が立てられ、義富が長禄3年(1459)の秋頃に没すると、その後継者として政長が擁立されるに至る。
この家督問題は、長禄4年(=寛正元年:1460)9月に細川勝元・伊勢貞親らの要請を容れた8代将軍・足利義政が義就を罷免、代わって政長を畠山氏の惣領とすることで一応の決着をみる。義就は河内国に逐われ、政長が河内・紀伊・越中の守護となった。これを不服とした義就は河内国岳山城に籠もって抗戦するが、政長は幕府軍や(成身院)光宣ら大和衆の助勢を得て寛正4年(1463)にこれを陥落させた。
翌寛正5年(1464)9月には管領に就任。
一方の義就は山名宗全(持豊)陣営に迎えられて文正元年(1466)に入京し、義政より赦免されたため、今度は政長が管領職を罷免されたのである。この政長・義就の抗争が翌応仁元年(1467)の上御霊社の戦いから始まる応仁の乱へと発展した。
この乱において、政長は東軍の細川勝元陣営として戦った。東軍は将軍である義政を擁していたため、義政から再び畠山氏惣領の地位を認められた。
文明5年(1473)に宗全・勝元が相次いで没したことなどから京周辺での争いが終息に向かうなかでも両畠山の内訌は継続し、河内国の所領の大半を義就に奪われた。
義就が没したのちの明応2年(1493)2月、10代将軍・足利義稙が義就の後継である畠山義豊(基家)を攻める際に従軍し、河内・大和国を転戦した。しかしこの間の4月に、細川政元が新将軍として足利義澄を擁立するという政変(明応の政変)が起こる。政長は政元より河内国に派遣された上原元秀・安富元家らの軍勢に攻められ、河内国正覚寺城で自刃した。閏4月25日、享年52。法名は実隆寺殿。