(成身院)光宣(じょうしんいん・こうせん) 1390〜1469

大和国奈良興福寺の官符衆徒筒井順覚の子。筒井順弘の弟。筒井順永の兄。成身院と号す。
大和永享の乱においては度重なる越智・箸尾氏の攻撃に圧されて幕府に軍勢の派遣を求めており、永享6年(1434)8月に父・順覚が越智勢に討たれると、翌年3月に西大寺の僧となっていた兄・筒井順弘を還俗させて筒井氏の惣領とした。
大和永享の乱は永享11年(1439)の春に筒井氏の要請を容れた幕府軍によって越智・箸尾氏が討たれたことで終息するが、嘉吉元年(1441)6月に6代将軍・足利義教が暗殺され(嘉吉の変)、管領・細川持之が、義教によって更迭あるいは処罰された者を赦免して義教以前の所職に戻す方針を示し、これによって越智氏らが復帰すると再び圧迫され、閏9月には筒井城を自焼して没落を余儀なくされた。
この威勢衰退を受けてか、翌10月には順弘を更迭し、新たな筒井氏惣領として弟の筒井順永を立て、幕府より家督の安堵を取りつけている。
しかし、嘉吉2年(1442)11月には摂津河上五ヶ関の支配権をめぐり、畠山持国の支援を受けた興福寺大乗院門跡代行の経覚との対立が生じ、更迭した順弘が反筒井勢力であった越智氏と結び、嘉吉3年(1443)1月には越智春童丸(家栄)に擁された順弘に逐われるが、2月下旬に順弘が同族の者に背かれて殺害されたことを受けて、順永とともに筒井城に復帰した。また嘉吉4年(1444)2月には持国や経覚の意を受けた軍勢と戦うなど一進一退の攻防が続けられたが、文安2年(1445)3月に管領が畠山持国から細川勝元に交代すると形勢は筒井方に傾き、9月には元の地位への復帰を果たし、享徳3年(1454)12月、経覚と和睦した。
ここに大和国内における権力闘争は一応の決着を見るが、享徳4年(=康正元年:1455)、畠山義就に逐われて大和国に逃れてきた畠山義富を支援したため、畠山氏の家督をめぐる内訌に関与することになり、7月に大和国に侵攻してきた義就に圧迫されて翌月には拠城の鬼薗(きおん)山城を落とされて没落した。
しかし長禄3年(1459)5月末に8代将軍・足利義政より赦免を受け、細川勝元からの支援も得て所領への復帰を果たす。この2ヶ月後には義富も赦免されているが、間もなく没したためにその弟・畠山政長が擁立されるに際しても関与したといわれ、以後は参謀的な地位に在って政長を補佐した。長禄4年(=寛正元年:1460)の秋頃より義就を追討するため大和・河内国を転戦し、寛正4年(1463)には義就の拠る河内国岳山(嶽山)城を経略によって陥落させたという。
文明元年(1469)11月20日に没した。享年80。