筒井順永(つつい・じゅんえい) 1419〜1476

大和国奈良興福寺の衆徒筒井順覚の子。筒井順弘(成身院)光宣の弟。舜良房と称す。
はじめ京都相国寺の僧であったが、嘉吉元年(1441)10月に長兄で筒井氏惣領であった順弘を逐った次兄・光宣と結んで筒井氏惣領に擁立され、官符衆徒に任ぜられた。
嘉吉2年(1442)頃より畠山持国の支援を得て興福寺大乗院門跡の地位に復帰した経覚と対立し、光宣の得ていた摂津河上五ヶ関の代官職などをめぐって交戦に及ぶ。
嘉吉3年(1443)1月には反筒井勢力であった越智春童丸(家栄)と結んだ順弘に逐われるが、2月下旬に順弘が同族の者に背かれて殺害されたことを受けて、光宣とともに筒井城に復帰した。
順弘との内訌は終息するも五ヶ関の代官職をめぐる経覚との抗争は続けられ、この職は同年中には興福寺の支配するところとなっているが、文安2年(1445)9月には経覚を圧して官符衆徒の地位と五ヶ関の代官職を奪回した。
康正元年(1455)、畠山持国没後の内紛に介入して畠山義就と対立し、同年10月には所領を逐われたが、長禄3年(1459)6月には管領・細川勝元の斡旋で幕府から赦免を受けて所領と威勢を回復し、寛正元年(1460)より畠山政長方の将として転戦し、義就方の越智氏らとも抗争した。
この畠山義就と政長の抗争が一因となって勃発した応仁の乱には東軍(細川勝元方)に属した。
文明8年(1476)4月5日に没す。享年58。