越智家栄(おち・いえひで) 1426?〜1500

大和国春日社の国民。越智維通の子。幼名は春童丸。弾正忠・伊賀守・修理大夫。
越智氏は興福寺一条院方の国民から発展し、大和国高市郡高取城を本拠として大和国南域に隠然たる勢力を確立した。
父・維通は大和永享の乱において箸尾氏らと結び、幕府の支援を受けた筒井氏と抗争を続け、永享11年(1439)3月に敗死した。
維通の没後は幕府の命によって一族の楢原氏が家督を継いでいたが、嘉吉元年(1441)6月に6代将軍・足利義教が討たれ(嘉吉の変)、かつて義教によって更迭・没落した者たちを復権させようとする動きが起こると、家栄は家督復帰を窺う畠山持国と示し合せて同年7月に蜂起、楢原氏を破って越智氏の家督を奪取した。
同年11月には同じく嘉吉の変後に興福寺大乗院門主への返り咲きを目論む僧・経覚とも結んでこれを支援し、経覚の政敵であった(成身院)光宣がその兄・筒井順弘と内訌を起こすと順弘を援け、嘉吉3年(1443)1月には順弘を筒井城に復帰させた。文安元年(1444)2月にも経覚の要請を受けて光宣や光宣が擁立する筒井順永と戦うが、大敗を喫した。
畠山持国の後継者争いには一貫して畠山義就に与して畠山政長や筒井氏と対抗した。文正2年(=応仁元年:1467)2月には義就を支援するために軍勢を率いて上洛している。
応仁の乱にも、義就が属した西軍(山名宗全方)に与した。
応仁の乱末期の文明9年(1477)9月、義就が河内国、ついで大和国に侵攻するとこれと連携し、筒井氏を抑えて大和国に覇権を確立した。
文明14年(1482)6月末には畠山政長を支援していた細川政元が義就と単独講和するにあたり、これを仲介した。
延徳2年(1490)12月に義就が没したのちはその子・畠山義豊(基家)に属し、明応2年(1493)2月に10代将軍・足利義稙が義豊を討伐するために河内国に発向したことにより一旦は没落しかけるが、4月に細川政元が義稙を失脚させて幕政の実権を握った(明応の政変)ため、事なきを得た。
しかし明応6年(1497)9月頃より政長の子・畠山尚順や筒井一族の反撃でしだいに勢力を失い、明応8年(1499)10月末頃にはのちに名跡を継ぐ越智家令が筒井氏らと和睦していることから、この頃には家栄は一線を退いていたとみられる。
明応9年(1500)2月27日に没したという。