畠山尚順(はたけやま・ひさのぶ) 1475〜1522

河内・紀伊・越中国の守護職を兼帯した畠山政長の嫡男。幼名は於児丸。初名は尚慶。尚度・尚長とも。従五位下・左衛門佐・尾張守。号は卜山。
明応元年(1492)、10代将軍・足利義稙に応じて近江国の六角高頼討伐に従軍。翌明応2年(1493)2月にも父の政長とともに義稙による河内国の畠山義豊(基家)討伐に従軍するが、この後に足利義澄を新将軍に擁して政変を起こした細川政元の軍勢に敗れ、紀伊国に敗走。このとき、政長は河内国正覚寺城で自害している(明応の政変)。
明応6年(1497)9月頃より義豊を打倒するため紀伊国から攻め上り、大和国の筒井氏らと結ぶなどして明応8年(1499)1月末に義豊を敗死させ、細川政元に更迭された前将軍の足利義稙と連携して京都を窺ったが、政元配下の将・赤沢朝経(宗益)の軍勢に阻まれ、同年末には再び紀伊国に敗走した。
翌明応9年(1500)、紀伊国の根来寺・粉河寺の衆徒とともに和泉国に侵攻し、9月には和泉上半国守護・細川元有を岸和田城に攻め滅ぼしたが、政元が派遣した赤沢朝経に敗れて再度紀伊国に退いた。
永正元年(1504)12月に至って、河内国を南北に分けて半国ずつ領有することで義豊の子・畠山義英と和睦し、義英が北半国守護、尚順が南半国守護となる。この和議によって河内国高屋城主となった。しかし永正4年(1507)、政元横死後の細川氏の内訌に介入したことで義英との対立が再燃し、細川澄元と結ぶ義英に対抗して尚順は細川高国に与し、嫡男・稙長とともに高屋城に拠って戦った。
永正5年(1508)、周防国に逃れていた前将軍・足利義稙が大内義興とともに東上してくると、高国とともに和泉国にて迎えて上洛、再び将軍位に就いた義稙より畠山氏惣領の家督と紀伊・河内一国・越中などの守護職を公認された。のち、幕命を受けて赤沢長経を大和国にて攻め滅ぼした。
永正8年(1511)7月、阿波国に逃れていた細川澄元が畿内に進撃して高国らを京都から逐うと、河内国の戦線でも澄元と連携した義英方が優位となって高屋城を失うが、8月の京都船岡山の合戦で高国らが勝利すると河内国でも形勢逆転し、勢威を回復した。
同年、高屋城を稙長に譲って紀伊国広城に移り住んだが、永正17年(1520)に家臣の叛乱によって和泉国堺に逃れた。一時はこれを奪回するも、再び敗れて淡路へと逃れ、大永2年(1522)7月に同地で没した。享年48。法名は勝仙院竜源徳陽。