正長2年(=永享元年:1429)6月、大和国興福寺一乗院の衆徒である井戸氏が、頓所坊と呼ばれる僧を殺害した。これに対し、この頓所坊から財産を譲り受けていた大乗院衆徒・豊田中坊が報復として井戸氏を攻撃したのである。
この抗争に、興福寺別当(長官)の一条院昭円は南都伝奏(奈良の寺院と幕府を仲介する取次)の万里小路時房を通じて得た停戦命令を豊田中坊と井戸に示したが、両者はこれに従わなかった。それどころか井戸氏には官符衆徒の筒井氏や十市氏、一方の豊田中坊には国民(春日社の氏人)である越智・箸尾の両氏が支援したことから抗争は拡大し、結果として筒井氏と越智・箸尾氏を両極とする抗争へと発展していくことになる。
8月には6代将軍・足利義教の意を奉じた使者が派遣されて再度の停戦命令を下したが、優勢だったと目される豊田方はこれに応じようとせず、面子を潰された義教は豊田討伐を企図したが、翌9月に予定されていた春日社参詣を滞りなく進めるため、討伐軍の派遣はひとまず見送られた。
そして9月下旬、義教は奈良に下向して春日社・興福寺・東大寺などを巡礼したが、その際に筒井氏は「将軍の停戦命令を無視して越智・箸尾が合戦の準備をしている」旨を訴えており、11月には義教が再三に亘って軍事行動を禁じる通告を下しているが、越智・箸尾・万歳・沢・秋山らは豊田を援けると称して軍勢を動かし、筒井・十市郷に侵攻した。これによって筒井は領内を焼き払われ、本城を残すのみという惨敗を喫したという。
これを受けて義教は豊田方を討伐する軍勢を派遣しようとしたが、武力介入に消極的な畠山満家の意を受けたその重臣・遊佐国盛の尽力で停戦は成る。しかし領内を侵略された筒井らは豊田討伐が履行されなかったことに不満を示し、同年12月に筒井氏惣領・筒井順覚と(成身院)光宣が上洛して越智らの討伐を願い出ており、畠山氏ら幕府首脳の支持を得られず実現しなかったが、畠山満家は筒井氏の意を酌んでのことか永享2年(1430)2月に越智・箸尾らに私戦を行わないよう誓わせており、幕府は大和国の守護に相当する興福寺に豊田中坊の退治を命じ、同月16日には興福寺によって編成された討伐軍が豊田中坊の館を焼き払った。
これで事態は収束したかに見えたが、永享3年(1431)8月24日に至って筒井勢が箸尾城を攻撃したことによって再燃する。箸尾氏はその報復として筒井方の蓬莱城を攻め落とし、ついで筒井城に迫った。この報告を受けた足利義教は筒井救援の軍勢を発向させようとしたが、今度も畠山満家の説得で軍勢は派遣されず、畠山氏の仲介で箸尾方も撤兵したため、討伐は中止となった。
しかし永享4年(1432)9月24日には越智・箸尾が再び筒井城を攻撃する。11月末には義教の命を受けて畠山持国と赤松義雅率いる軍勢が大和国に出陣したが、越智・箸尾らは逃走し、12月19日頃より幕府軍が帰還する隙を狙って襲撃し、大損害を与えた。
永享6年(1434)8月には筒井勢が越智城を攻めたが、この抗争で筒井順覚が逆に敗死する大敗を喫した。この戦勝に意気を揚げた越智維通は同輩の豊田・福地堂・小泉らに奈良の治安維持を命じているが、これは興福寺の権限を侵すものであり、幕府もどちらかといえば筒井方に肩入れをしてきた経緯から、越智氏は興福寺・幕府へ反抗したとみなされて追討の対象とされた。これにより、事態は筒井方と越智・箸尾方の私闘から、幕府主導による反抗勢力の追討戦へと拡大されたのである。
永享7年(1435)4月には順覚の子で光宣の兄にあたる筒井順弘が幕府より認められて筒井氏惣領となり、義教は9月には総大将の畠山持国以下、細川・土岐・北畠・六角・京極氏らの幕府軍を大和国に発向させた。
この大軍に攻められた越智・箸尾勢は没落を余儀なくされ、鎮圧成ったとみた幕府軍は12月には帰洛した。しかし越智勢は同年末に幕府軍の駐留部隊を夜討にするなど抵抗の姿勢を崩さなかったため、幕府は翌年1月、前年に出陣させた軍勢に加えて一色義貫・武田信栄の援軍を大和国に発向させた。それでも平定は成らず、永享9年(1437)1月にはさらに13の大名からなる軍勢が送り込まれたのである。
同年7月には義教の異母弟で、かつて4代将軍・足利義持死没に際して後継者候補のひとりであった前大覚寺門跡・義昭(15代将軍の足利義昭とは別人)が逐電して越智氏に擁立され、その1年後の永享10年(1438)7月、大和国吉野郡の天川で挙兵に及んだのである。
この報を得た義教は一色義貫・京極高数に命じて鎮圧に向かわせ、翌月にはさらに細川持常・斯波持種・山名宗全を発向させて越智・箸尾の拠る多武峰を攻めさせ、これを陥落させている。
そして永享11年(1439)3月27日には越智維経が、4月11日には箸尾次郎左衛門が討たれ、ここに大和永享の乱は終息したのである。