松平定勝(まつだいら・さだかつ) 1560〜1624

徳川家臣。久松佐渡守俊勝の四男。母は水野右衛門大夫忠政の娘・伝通院(於大の方)。幼名は長福丸、通称は三郎四郎。隠岐守・左近衛権少将・従四位下。
徳川家康の異父同母弟にあたるため、早くから家康に従って緒戦に活躍した。とくに天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦において、滝川一益の拠る蟹江城を攻めて戦功第二と賞される活躍を見せた。
天正18年(1590)の徳川氏関東移封に際し、下総国香取郡小南で3千石の所領を与えられた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役のおりには遠江国掛川城を守って戦功を認められ、翌年に掛川城で3万石の領有を許された。
慶長12年(1607)には畿内の要衝となる伏見城の城代として5万石を領知し、翌年の領知再編によって伏見付近で1万石、近江国滋賀・高島郡のうちで4万石、かつ有事の際の扶助料として城米2万石を給された。
慶長年間末期の大坂冬の陣には伏見城、夏の陣には二条城をを守護し、元和3年(1617)7月には伊勢国桑名11万石の領主となった。
元和9年(1623)に従四位下・左近衛権少将に叙位・任官。
寛永元年(1624)3月14日に桑名で病死した。65歳。法名は崇源院殿霊厳円徹。