伊達家臣。鬼庭良直の子。左衛門・延元・石見と称す。
天正13年(1585)11月の人取橋の合戦には父・良直と共に従軍し、この戦役で良直は殿軍を請けて岩城家臣・窪田十郎に討たれたが、捕らえられた十郎の身を預けられた綱元は、虜囚を斬るのは士道に恥じる、として十郎を釈放。これに感じ入った十郎は綱元の家臣となった。
伊達政宗に重用され、天正14年(1586)には奉行職を命ぜられ、天正16年(1588)には岩城・相馬領への要害である石川郡百目木(どうめぎ)城を与えられ、同地の警備にあたった。
天正18年(1590)に会津黒川城主・蒲生氏郷の通報によって、羽柴秀吉から葛西・大崎旧領での一揆勃発は政宗の扇動であるとの嫌疑をかけられた際、翌年にはその陳弁のために京都へ赴き、また、その鎮定戦にも従軍している(葛西・大崎一揆)。
文禄の役に際しては京都に至り、秀吉の命によって旧姓の茂庭(もにわ)に復し、渡海はせずに肥前国名護屋城に在陣しているが、このときに秀吉から愛妾のお種殿を賜って妻にしたという。
その後、故あって出奔するが、慶長2年(1597)に許されて帰参して旧来のとおり政宗に仕えた。
政宗の庶長子・伊達秀宗が伊予国宇和島に移封するに際しては子・良元と共に一時的に宇和島に赴き、初期の藩政を助けた。
寛永17年(1640)5月24日、栗原郡文字村にて死去。享年92。法名は了庵庵主籌外全勝。